Blog記事一覧 > 12月, 2022 | 春日部市高橋はりきゅう整骨院|鍼灸・腰痛の記事一覧
鍼灸学校、柔整(接骨院)学校のWスクールは1年間で、それが終わったらマッサージ店は辞めて、接骨院か整形外科でバイトしようと決めていた。
ただバイトしていたマッサージ店は居心地が良かったし、仲良くなったスタッフとの別れが名残惜しかった。
スタッフは同年代が多く楽しい職場だった。
そんな居心地の良いマッサージ店の話ですが、
最初に入ったのは私で、私の友人が次に入り、それから柔整のクラスメイトが次々に入り、最終的に10人ほどが入った。
店も店舗を急拡大している時でスタッフが必要だったため、不採用はなく雇っていたようだ。
しかし、気がつくと柔整クラス60人の中の10人ほどがこのマッサージ店でバイトするという異常事態になってしまっていたのである。
異常事態というのは、一般的に柔整の学生は接骨院や整形外科でバイトしながら勉強するのが当時の主流だった。
それは柔整の専門の骨折、捻挫、脱臼、打撲を学生のうちから学ぶのが将来に役立つからだ。
しかし、当時の接骨院は師弟制度の名残りがまだあり今でいうブラック企業だった。給料も安く、パワハラ当たり前、有給休暇なし、ボーナスなし、残業当たり前の世界。
働くといより修行という感じであった。
それに比べれば、このマッサージ店は大手下着メーカーの子会社のため社会一般の労働環境が整っていた。
個人経営の整骨院、鍼灸院では「有給休暇」「残業」という概念がなかった
接骨院で弟子修行しながら学校に来ていたクラスメイトは目が死んでいつも疲れ切っていた。
それに対しこのマッサージ店でバイトしていたクラスメイトは楽しそうであった。
なので自然にマッサージ店でバイトする人が増えたのだろう。
私はそれから鍼灸学校を卒業しWスクールも終わり、鍼灸の国家試験も無事合格した。
予定通りマッサージ店のバイトは1年で辞めた。
鍼灸学校は卒業したが、まだ柔整学校が2年間残っていた。
柔整学校は午前のみであったため、午後どうしようか迷ったが鍼灸接骨院でバイトすることにした。
接骨院でバイトするとしても鍼灸に力を入れている院がよかった。
業界誌の「医道の日本」の求人で探すと学校から自宅の途中に鍼灸に力を入れている鍼灸接骨院があった。
そこに電話をして面接してもらえることになった。
つづく。
渋谷2号店に移動して半年ほど経った頃、銀座に新店舗がオープンすることになった。
またも私はオープニングスタッフになり銀座に配属になった。
ちなみにオープニングスタッフは新店長が好きなスタッフを選んで本部と相談して決めるらしかった。
銀座店は有名な銀座4丁目の交差点から300mほど離れた松屋と松坂屋の間のビルの7階にあり、大通りに面した立地の良い場所であった。
銀座は大人の街のイメージだったが、まさにその通りであり、若者の街の渋谷とは違って、街には落ち着いた雰囲気があった。歩いている人もどことなく気品がある感じがした。
銀座店のお客さんは銀座の街に合った渋谷よりやや年齢層高めの落ち着いた人が多かった。
しかし銀座店はオープン当初は暇だった。
渋谷店は雑誌に取り上げられてオープン直後から忙しかったが、銀座店はオープンして3ヶ月ほどはかなり暇で出勤してもマッサージしないで帰る日もあった。
マッサージがない日は、1ベット貸してもらい国家試験の勉強をしていた。
ちょうどその頃は、鍼灸3年生で国家試験を控えていた時期であった。店長もいい人で「暇な時は勉強していいよ。」と言ってくれた。
そんな銀座店のスタッフは皆仲が良く、飲み会が頻繁に行われていた。
私も学校がない日にたまに参加したが、終電過ぎまで飲んでそのままお店に泊まることもあった。
それから銀座店には辞めるまで5ヶ月ほど在籍したが、総じて楽しかった。
以前も書いたが、このマッサージ店全体的に若いスタッフが多く学校の部活みたいなノリがあったので、どこの店舗にヘルプに行っても楽しかった。
銀座店は最初は暇であったが、数年後、倒産する際に最後まで残ったのは銀座店だったらしい。
このマッサージ店はこの後、銀座に続き新宿にも新店舗を作り拡大していくが、結局10年経たないで倒産してしまう。
何が原因で、何がダメだったのか?
私の辞めた後の出来事なので私は全く分からない。
私がバイトしていた時は新店舗が次々にでき、雑誌の取材も月1はありお客さんも多かった。
あの頃のスタッフは今、どうしているのだろう。
自宅にスタッフを招いて美味しい料理を振る舞ってくれた大谷部長。
丁寧にマッサージを教えてくれた佐藤さん。
各店舗の個性的な店長達、私と仲の良かったスタッフ仲間達。
何人かは今も連絡してるが、ほとんどの人は連絡先も分からなくなっている。
このマッサージ店で教わった技術は、その後、私のベースとなり今も使っている手技もある。
特にいろいろなストレッチを教わったので、今も私は長いマッサージにはストレッチを必ず入れている。
お世話になった部長、先輩スタッフには感謝しています。
マッサージ編『完』
バイトのマッサージ渋谷2号店がオープンし私も配属になった。
オープンし2週間ほどは暇だったが、雑誌の取材が入ってからは激混みになった。
そこのマッサージ店は渋谷にあり、オシャレなマッサージ店だったためよく雑誌の取材をされていた。
何回かTVの取材もあった。
当時はネットがなかったので、東京の情報は「東京ウォーカー」などのタウン誌しかなかった。
そういうタウン誌のお店紹介ページによく載っていたのだ。
しかし、雑誌に載っても忙しいのは3週間ほどであり、それを過ぎるとパタっと客足が止まるのを経験した。
雑誌を見てくる人は常連にはならないのである。
そんな感じで渋谷2号店も1号店同様に、常連さんというより1回きりのお客さんが多かった。これは渋谷の街の特徴だろう。
そらから、渋谷2号店では半年ほど働いた。
私は渋谷は学校から近く、ずっと渋谷店が良かったのだが、半年くらいして銀座店が新しくできることになり私はまたも銀座店のオープニングスタッフ配属になり、渋谷2号店を去ることになった。
私が渋谷2号店を去った数ヶ月後、銀座店にヘルプで来た渋谷2号店のあるスタッフから
「高橋君がいた時は、マッサージに皆んなが率先して入って元気あったのに、今はジャンケンで負けた人が入るんだよ。なんだか雰囲気暗くて。高橋君はいつも元気だよね。なんで?」
と聞かれた。
まさか「天風哲学の実践者だからさ!」と答えても分からないし説明するのも面倒なので
「いつも心に太陽があるからだよ!」
と言ったら
「なにそれ?」
と笑われた。
私はバイトに行ったら率先してマッサージに入るようにしていた。
先に入ろうが後から入ろうがマッサージに入る人数はたいして変わらない。
それなら率先して入った方が気持ちがいい。
誰かが率先して仕事をすると次から他の人が率先して仕事をするようになり、職場の雰囲気が前向きになる。
中村天風氏はこう言う。
「好きな人のためだったら重い荷物を持って階段を登っても疲れないが、嫌いな人のためには紙一枚持っても疲れる。すべての心の持ちようなのだ。心に負担をかけなけらば疲れるなんてことはない。」
嫌だ、嫌だと思って仕事をしていると疲れる。
楽しんで仕事をしてれば疲れない。
仕事は1日のほとんどを時間を過ごす。
また、それは人生の長い期間を過ごす。
嫌だと思って疲れた人生を過ごすのか
楽しんで楽な人生を過ごすのか
全ては心の持ちようである
誰のせいでもない、全ては本人の心の持ちようなのである。
つづく。
渋谷は言わずと知れた若者の街だが、柔整(整骨院)、鍼灸の学校は渋谷にあった。
鍼灸3年、柔整3年の専門学校なのだが、1年Wスクールのため渋谷には5年通った。
ちなみに柔整、鍼灸は同じ学校法人が経営している為、校舎は同じだった。
柔整の学校が始まり、たまたま隣の席になったI君は私と同じ柔整、鍼灸のWスクールをしていた。しかも3年間。
I君に「授業の空き時間は何してるの?」と聞いたら
「家が近いから帰ってます。」と言う。
どこに住んでるのか聞いたら、なんと道玄坂であった。
柔整学校は9〜12時、鍼灸学校は18〜21時で空き時間が6時間もあった。
聞くと、I君は地方から出てきて道玄坂に住んでいた。親しくなってから遊びに行くと、道玄坂の1ルームマンションで4畳半ほどの部屋にユニットバスという極小ルームに住んでいた。
たぶんそのマンションは元シティーホテルで、そこを賃貸マンションにしたようなつくりであった。家賃は当時8万円くらいと言ってた。
しかし道玄坂は部屋も極小であったし、周りもいかがわしい店が多く、とても学生が住む雰囲気ではなかった。
そんなI君だが、私が「僕がバイトしているマッサージ店は学校の空き時間に雇ってくれるよ。とうせバイトするならマッサージがいいんじゃない?日曜出勤もあるけど、やりたかったら言って。」と言うと
「是非やりたい!」と言う。
私はバイト先にその事を話しI君も採用になった。
それからI君とは仲良くなり、私は夜、片道90分かけて春日部に帰るのが面倒な時、たまにその極小ルームに泊めてもらった。泊めてもらった夜は終電が終わった後に、I君と渋谷をぶらぶら散歩することもあった。
昼間はあんなに人が多く喧騒な街も夜中は嘘のように人もいなくなり静かになった。誰もいない渋谷を歩くのはなんだか気持ちが良かった。
さて、渋谷のマッサージ店は渋谷公園通りに1店舗があったが、もう1店舗を新規に東急ハンズ近くに作り、私はそこのオープニングスタッフとして配属になった。
渋谷2号店の店長は、すごく優しい男性店長で、また副店長にマッサージ研修をして頂いた佐藤さんが配属になった。私は知ってる人が来てくれて心強かった。
自由が丘店のお客さんは40〜50代落ち着いた人が多く常連さんがほとんどであったが、渋谷は若い新規のお客さんが多かった。
中には地方から東京見物に来て渋谷でマッサージを受けて行く人も多くいた。
また日曜出勤の後などは、同僚と渋谷のオシャレなお店で一杯飲んだりした。今思えばこの頃が一番楽しかった。
今もたまに渋谷に遊びに行きたいと思う。
あの頃とどう変わったのか散歩してみたいが、もう25年近く行ってない。
渋谷は当時から店の移り変わりが激しかったので、今はかなり変わってしまっただろう。
学校、バイトと渋谷には5年間も通ったので思い出の深い街である。
つづく。
自由が丘店には、とても人気のある男性スタッフSさんがいた。
系列店40名ほどいるスタッフの中でも人気No1。
2ヶ月先の予約枠がオープンになるとすぐに一杯になってしまう。
Sさんは年齢30代前半、吉田栄作に少し似た爽やかな感じの人だった。マッサージももちろん上手いと評判だった。
そんなイケメン爽やか青年なので、自由が丘のマダム達がメロメロになっていたのだろう。
私は一度Sさんに
「何か特別な技とかあるのですか?」
と聞いたことがあったが、爽やかに
「別に普通にマッサージしてるだけだよ。なんで人気なんだろうね。俺も分かんない。」
と言っていた。
店長にも
「Sさん、なんで人気なんですか?」
と聞いたら
「Sさん、すごく優しいよ。」
と言っていたが、私は内心(それだけ?他にも優しい人はいるのに。やっぱり見た目?)と思っていた。
そんなもてもてのSさんだったが、後に同僚の地味なスタッフと結婚した。
私はチョット意外であった。Sさんだったら、もっとキレイな女性はいくらでもいただろうに。分からないもんだな〜と思った。
そんなSさんだが、私が退職して8年後くらいに当時のスタッフが集まって飲み会をやった時に来ていた。
Sさんは
「あれから自分でマッサージ店をやったけど潰れて、その後、雇われ店長も2つほどやったけど潰れた。それから友人の店で働いていたけど、そこも潰れた。俺、何件潰したなかな〜」
と話していた。
あれほど人気のSさんでも続かなかったのか?
マッサージ店の経営って難しんだな、と思った。
ちなみに私が当時バイトしていたこのマッサージ店も数年後に倒産した。
私がバイトしていたこの頃が、1番勢いがあったのではないか?
私の配属先は渋谷に2号店ができるらしく、そこの新規オープンスタッフとして配属されることになった。
つづく。
自由が丘店の研修も終わり、いよいよお客さんに入ることになった。
店のマッサージは確か50〜90分のコースだったと思う。
今まで10分ほどのマッサージを知り合いなどにやった事はあったが、お金を頂き本格的なマッサージをするのは初めてであった。
そして、ついにその日が来た。
「この人は優しいから大丈夫だよ。」と店長に言われ、初めてのマッサージは50分コースで40代女性だった。
簡単な自己紹介をして、教わったとおり50分コースを緊張しながら施術した。
たぶん私が緊張しているのを感じたのだろう、マッサージした後にお客さんに
「マッサージしてどれくらいなんですか?」
と聞かれた。
(えっ!下手だった?なんて答えれば良いのか、実は初めてなんですって言っていいのか?どうしよう。。)変な汗が出てきて焦った。
「実はまだ1ヶ月ほどなんです。すいません。」
と、初めてと言えずにそう言ってしまった。
しかし、お客さんは笑顔で
「マッサージ良かったですよ。ありがとうございました。」と言われた。
あまりに緊張してぎこちなかったので励ましてくれたのだろう。
お客さんをリラックスさせるどころか、逆に気を使ってもらったようだ。
しかし、同情からでも「マッサージ良かった。」と言ってもらって嬉しかった。
それから平日1日4時間勤務の間に2〜3人、日曜は6〜8人ほどマッサージして徐々に慣れていった。
自由が丘店のお客さんは40〜50代の系列店の中では年齢層高めの落ち着いた人が多かった。
それから1ヶ月ほど研修した後、本格的な移動となった。
私は希望の店舗を聞かれたが、学校が渋谷なので渋谷店を希望した。
渋谷だったら少し時間に余裕ができ学校が終わった後、店のランチが食べれた。
そんな感じで今から約30年前、初めてのマッサージを経験したが、今の私の施術と何が違うのか?
もちろん行なっている手技も違うが、一番の違いは「身体の読み」だろう。
当時の私のマッサージはマニュアル通り。
決まった順序でマッサージするだけ。身体を読むことはできなかった。これが初心者と上級者の違いだろうと思う。
「身体を読む」とは身体の力学バランスを診たり、東洋医学の脈診、腹診、舌診、背項診や、患者さんの心理状態も診ていくことである。
これは簡単でもあり難しくもある。
初心者でもやり方を教わればみれるが、上級者になればなるほど深いレベルで身体をみることができる。
具体的に整体では
肩の位置はどうなっているのか?
骨盤の位置はどうなっているのか?
脚の長さ、開き方は?
関節の可動域はどうなっているのか?
筋肉、皮膚の張りはどうなのか?
呼吸は深くできているか!
などをみる。
また鍼灸では
脈はどうなっているのか?
舌の色は?爪の色は?
背中のツボ、手足のツボの反応は?
腹部の緊張は?
生活環境はどうなのか?
ストレスはあるのか?
などを診ていく。
また、ベテラン治療家になると言葉に出して訴えられない症状、悩みなども感じながら施術していく。
人は表面的な悩み、苦しみは訴えることはできるが、心の奥底にある本当の悩み、苦しみは言えないものである。
つづく。
マッサージ研修が終わってから実際の店舗に行って、接客がメインの研修が行われた。
私が配属されたのは自由が丘店であった。
自由が丘は学校がある渋谷から30分ほどかかった為、ゆっくり食事する暇はなくコンビニでの昼食、夜食であった。
自由が丘というとセレブが住む高級住宅というイメージがあるが、実際行くと意外と庶民的な町であった。
(今から30年前の話なので今はどうなってるか知りませんが)
駅近くには古びたお惣菜屋や定食屋、ラーメン屋などが並んでいてイメージとはかなり違っていた。
たぶん自由が丘でも庶民的な地域と高級住宅な地域があったのだろうが、駅近くは庶民的な雰囲気であった。
私が研修したマッサージ店は駅から3分くらいのところだった。
一般的に普通のマッサージ店はそこまで接客を徹底してないが、私の働いたマッサージ店はオシャレな雰囲気のマッサージだった為か接客には厳しかった。
これは接客についての私の考えだが、あまり接客が形式的になるとかえって親密度が薄れる気がする。
本音での対話ができないで表面上のやりとりになってしまうからだ。
接客はあまり形式ばらずに、1番大切なのは「相手を尊重する気持ち」だろう。そういう気持ちは伝わると思う。
ちなみに野口整体(井本整体)において、相手への心遣いについては「気づかい」「気配り」「気働き」という言葉がある。
最高のおもてなしとは、相手に気を使ってると悟らせないようにその人の心地よい待遇をする事だという。
相手の欲することを言葉なく感じて自然の成り行きの如く相手を導くことは、声なき声を聞き、訴えられない身体の訴えを感じる第一歩なのだ。
なので「気配り」「気づかい」「気働き」ができない鈍感な人は治療家には向いてないのである。
つづく。
鍼の師から「鍼灸をするには体に触り慣れないといけない。」と言われ、専門学校の空き時間にマッサージのバイトをすることにした。
面接に行き、働くことになったマッサージ院は有名下着メーカーの子会社になっており、都内の自由が丘、渋谷2店舗、銀座、新宿にお店があった。
研修施設もあり新人が入社すると1ヶ月ほどのマッサージ研修もあり、さすが大会社の子会社でそういうところはしっかりしていた。
研修はマッサージ部門代表の大谷部長(本部の部長兼マッサージ会社代表でもあった)の直属の部下の佐藤さんが担当だった。
ちなみに大谷部長、佐藤さんは鍼灸マッサージ師である。
マッサージは、その流派によってやり方が違う。
そこのマッサージ院は当時流行っていた「スポーツマッサージ」を売りにしており、あん摩指圧に加え、ストレッチを多く取り入れたものであった。
またオイルマッサージなども行なっていた。
私は正式にマッサージは習ったことがなかったが、佐藤さんが1対1で丁寧に教えてくれた。
マッサージの手の使い方やマッサージする前の筋肉の緊張、した後の変化など丁寧に教えてくれた。
今思えばバイト代をもらいながら1ヶ月も教えてもらえるなんていいバイトだった。
マッサージ院によっては研修費用を給料から天引きするところもあるのだ。
研修は最初の頃は手が慣れなくてぎこちなかったが、徐々に慣れていき、1ヶ月しないで合格をもらった。
また、そのマッサージ院はオシャレな雰囲気のマッサージ院であり、接客については厳しかった。
指導してくれた佐藤さんは裏表のないサバサバした性格で、帰る電車も同じ路線だったのですぐに打ち解けた。
それから1ヶ月予定の研修は3週間で終わり、研修後は実際の店舗に行っての研修となった。
ちなみに、このマッサージ院はスタッフ全員で40人弱いたと思うが、新しい会社で20代〜30代前半が多く学校の部活みたいなノリがあり、総じて楽しかった。
スタッフ同士はニックネームで呼び合い、仕事後によく食事や飲みに行ってるようでスタッフがとても仲が良かった。(私は夜は学校があったが、たまに飲み会に合流していた)
今振り返ると単純に楽しさだけだったら、このマッサージ院の時が1番楽しかったかもしれない。個性的なキャラの人もたくさんいた。
しかし私はG先生のような鍼灸師になるのが目標なので、マッサージはWスクールの1年だけと最初から決めていた。
それからマッサージ研修も終わり店舗研修になった。私は自由が丘店に配属になった。
しかし、自由が丘店の店長は、スタッフ皆んなから恐れらていると噂の女性店長の店であった。
つづく。