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これは2006年から2011年の約5年間、私が34歳から38歳の頃、整骨院を開業して6年ほど経った頃の話である。この5年間は1年で正月の3日間しか休まず整骨院をやりながら週2日、日曜祭日、全て整体に通っていた。整体狂時代の話である。
井本整体では最初に『命への礼』を教わる。
『命への礼』とは何ぞや?
井本整体では、実技練習の前に人の体に触れる心構えとして「命への礼」を教わる。
『命への礼』とは「生命の尊厳を認識し相手を尊重しなさい」ということだ。
例え練習といえど、相手の体、命を借りて練習させて頂くのである。
相手への感謝、礼儀を欠いてはいけないという教えである。
前回書いたが、私は初日に先輩から
「あなたは人を物扱いしてます。もっと丁寧に慎重に触らなくてはダメです。」
と忠告された。
根が鈍感なせいかそれほど気にしなかったが、初日なので少し面食らった。
私は整骨院で1日中、人の体に触れている。
いわば慣れている。慣れ過ぎている。
慣れすぎていた為、無意識に雑に触れていたのかもしれない。
しかし、考えると「命の尊厳への意識」は本来あるべき医療業界こそ低いのではないか?
仕事になると患者さんが次から次である。
いちいち生命へ尊厳など気にしている暇はない。
中にはワガママな人、神経質な人もいる。
「このヤロー!」と思う時もある。
しかし、それでも生命の尊厳『命への礼』は忘れてはならない。
鍼灸学校、柔整学校でもこういうことは教わらない。
今まで会った治療家を振り返ると『命への礼』がある治療家、ない治療家がいる。
治療家として名のある人は「命への礼」があるようにと思う。
それは、患者さんは感じるものだ。
井本整体に行ってなんとなく感じていた大切なことに気付くことができた気がする。
これは2006年から2011年の約5年間、私が34歳から38歳の頃、整骨院を開業して6年ほど経った頃の話である。
井本整体の初等講座、最初は毎週日曜に行った。
(途中から水曜にH先生の初等講座もあったので、水、日曜で行くようになった。初めはどちらかしか出席できないものと思っていたが、両方出席しても良いシステムなのが分かり両方出席した。)
日曜、初等講座に参加した初日。
前述したが、初等講座の初めの三ヶ月は「腹部一二調律点」であり腹部の施術を主に行った。
講座は、最初20〜30分ほどの座学があり、それから実技練習に入る。
実技練習は2人組になり、お互いに実技を行い感想を言いあう。終了すると手を挙げて、他の終わった組と入れ替えをして再び練習する。
初等講座に参加していたのは60〜80人ほどいたが、その生徒の8割は先輩であった。
井本整体では一度受講した講座は何回でも出ても良く、生徒は何度も受講して技術を高めるシステムになっている。
そこが学校ではなく道場なのだ。
武術と同じで繰り返し練習することで体感で会得していく技術なのだ。
基本的に初めての生徒は先輩と組み、指導してもらう。
初日、私も何人かの先輩と組み練習させて頂いた。
しかし、ある一人の先輩から
「あなたは人を物扱いしてます。触り方が雑過ぎます。もっと丁寧に優しく触らないとダメです。」
と、厳しいことを言われた。
(えっ!物扱い?どういうこと?)
「はあ、すいません。」
とだけ言った。
根が鈍感なのでたいして気にしなかったが、初日ということもあり少し面食らった。
これは今だから言えるが、人に触った事がない素人は最初は緊張して慎重に触る。
先輩は新人だと思っていたが、妙に慣れて雑に触るものだから厳しく言ったのだろう。ちなみにその先輩はその後もっと厳しい先輩がいる中、優しい先輩であった。
私は整骨院では1日中、1日8時間ほど人の体を触っている。慣れているというか、慣れすぎている。当時の私はそこに雑さもあったのだと思う。
「触診の丁寧さ」
これは、井本整体で身につけた技術の一つである。
井本整体を卒業してからいくつかの勉強会に行ったが、どこに行っても実技になると
「高橋さん、上手いですね。」
と言われる。
治療家の実力は触られた瞬間に分かる。
触り方で「この人はやるな!」とか「この人は下手だな。」とか分かる。
井本整体では着手(手を触れる瞬間)を大事にする。
着手には、触れる箇所、タイミング(呼吸の間)、圧度などが重要になる。
訓練された治療家は、それらを考えないで行う。
意識しないで「手」が勝手に相手の欲しい箇所に行くのである。ふっと手を置いた箇所に「硬結」があるのである。
そういう練習を整体では行う。
私も井本整体に入る前に臨床を15年ほどやっていたが、経験上、これはそういう練習をしないとできない。
ただ長く臨床をやっているだけでは、雑な治療家は雑なままである。
これは2006年から2011年の約5年間、私が34歳から38歳の頃、整骨院を開業して6年ほど経った頃の話である。
初めて井本整体の道場を訪れたのは4月の下旬の日曜日であった。
東京の千駄ヶ谷は埼玉の春日部から1時間ほどで着いた。
井本整体は千駄ヶ谷駅からは徒歩10分ほどであった。木の立派な看板に「井本整体」と書かれていたので、住宅街の中にあったがすぐに分かった。
中に入ると1階は井本先生の操法室(施術室)であり、2階が整体道場になっていた。
ちなみに地下は談話室になっており食事をしたり休憩する場所で、4階は自主練の部屋と、認定指導者の会議室のようであった。
中に入ると受付で体験申し込みをして2階の道場に通された。
講義の開始が10時からだったので少し早めに行ったのだが、すでに他の生徒達は来ているようで、ざっと60〜80人ほどいた。
また道場の広さも学校の教室3つ分、別の言い方だと柔道の試合2面分くらいの広さがあり、その規模に圧倒されてしまった。
(ここでどんな講義が行われているのだろう。)
正座して待ちながら、なんだかわくわくしていた。
井本整体の練習はベットではなく床で行われる。
講義は正座で聞き、操法の練習は床に受け手が寝て行われる。
講義が始まる前、講師のF先生に
「何が療術やってますか?」
と聞かれたが
(療術って何?)
「やってません。」
と答えてしまったが、後で分かったが療術とは整体の昔の言い方であり、野口整体全盛の時代は療術と言っていたそうだ。
初日はベテランの先輩が専属で付いてくれ、初めから教えてくれた。
初等講座の最初三ヶ月は腹部一二調律点であった。
約3ヶ月、主に腹部の練習するのである。
もちろん腹部は鍼灸学校でも教わったが、実際に腹部を時間をかけて触るのは初めてであった。
今思えば。井本整体ほど真剣に丁寧に体を観察するところは他に無いと思う。
それは野口整体から引き継いだものだろう。
野口整体では、昔はパンツ1枚になり1日中、夜を明かしてお互い観察したそうだ。
さすがに井本整体ではパンツ1枚になり練習する事はなかったが、特別講義の時は朝から夜まで講義、夜も終電近くまで自主練があったときもあった。
初めて井本整体を体験をしてみて、道場生の真剣な練習風景、講師のF先生の深みのある講義に好感が持てた。
また道場の「凛」とした雰囲気も気持ちよくとりあえず初等講座を受けることにした。
これは2006年から2011年の約5年間、私が34歳から38歳の頃、整骨院を開業して6年ほど経った頃の話である。
この約5年間は整骨院を開業しながら、整体道場に週2回通い勉強した。1年の休みは大晦日、元旦、2日の約3日しか取らず全ての休日を整体道場に通った。
我ながらよく通ったなと思うが、通い始めた2006年は長女が生まれた年であった。子煩悩なパパなら、子供と一緒にいるのが幸せなのだろう。私ももちろん子供は可愛い。しかし、それから5年間はほぼ全ての休日は整体勉強に通う整体狂時代だった。
そもそも何故、整体研修に行くようになったかというと、妻が「マッサージの資格を取りたい!」と言い出したのがきっかけであった。
マッサージの国家資格は3年間学校に通わなければならない。時間もお金もかかる。
「とりあえず民間資格の整体いいんじゃない?」ということで、いろいろな整体や民間資格を調べ始めた。
いろいろ調べていると妻より私の方が興味が出てきて、私がいくつかのスクールの体験に行ってみた。
スクールに行ってみると、ほとんどのスクールは素人相手のものであった。
ある整体は、やっている技術はカイロプラクティックなのに何故か理論は東洋医学。しかも東洋医学もデタラメ。
また、あるところはお金の話に終始して肝心の技術、理論はほぼなく、痛いところをただ押すだけだったりした。
そんな折、本屋で治療系の本をパラパラ見ていると、1冊だけ「この人は本物かも?」と思える本を見つけた。
「この著者はどんな人なんだろう?」と経歴を見てみると、
「あっ!あー。。。そうか。。」納得した。
私の鍼の師が
「整体とかカイロとはほとんどはくだらないものだが、野口整体だけは本物だぞ。時間があったら勉強してみるといいぞ。」
と言っていたのを思い出した。
その本の著者は、子供の頃より野口整体の支部長をしていた父に整体の英才教育をされた先生であった。
その本を購入し熟読したが、読めば読むほど「この人は本物だ。」という確信が持てた。
数日後、実際にそこに行って体験してみたい!という気持ちが強くなり、そこの整体に電話をして実際行くことになった。
ここまで読んで、あれ?奥さんが整体行くんじゃなかったの?と思われると思うが、妻は結局、鍼灸マッサージの国家資格を取る方がいいという結論になり、数年後、子育てをしながら専門学校に通い国家資格を取った。
それから数日後、確か4月の下旬の日曜日。
私は東京千駄ヶ谷の「井本整体」の整体道場を初めて訪れるのであった。
今回の話は超マニアックな内容です。
興味ある人は読んでください。
『傷寒論』で面白いのは、風邪には入り口が2つあると書かれていることだ。
傷寒論では背中の上の部分を「表」と呼び、お腹を「裏」と呼ぶが、風邪の入口は表、裏の2つである。
風邪は体力のある人は背中(表)から入り、体力のない人はお腹(裏)から入る
背中から風邪が入る?お腹から風邪が入る
これはどういうことだろう?
なぜ古代中国人は、このように考えたのであろう?
これは私見ではあるが、背中(表)というのは扁桃の反応ではなかろうか?
扁桃はのどにあるリンパ組織で、ウイルスや細菌などがからだに侵入しないよう防御する役割を担っている。
ツボに「風門」というツボがあるが、表(背中)にあり風邪で喉が炎症を起こすと張って硬くなる。
風邪を引いて扁桃に反応がでて背中が張って硬くなる人がいる。
また、扁桃で防御できなく反応がなく背中も張らない人もいる。
扁桃で防御できる人は体力のある人であり、防御できない人は体力のない人である。
つまり
体力のある人→扁桃腫れる→背中が張る→背中が入口
体力ない人→扁桃腫れない→背中張らなく胃腸にくる→お腹がが入口
私は傷寒論における風邪の入口というのはそういうことなのだろうと考えている。
傷寒論では、それぞれのタイプの経過に合った漢方薬が記載されている。
「葛根湯」は体力があるタイプの人の薬である。
「葛根湯」は表(背中)を温める薬であり、原料は葛の根である。葛餅に使われる葛(くず)である。
表を温める薬なので首凝り、肩こり、五十肩などの症状ななも有効なのである。
現代医学的に考えると上記の通りだが、古代人は現代人よりもはるかに直感に優れていただろうから、別の意味もあるかもしれない。
開業した年の7月頃〜12月にかけて『傷寒論』の勉強会をうちの整骨院でやっていた。
傷寒論は後漢末に張仲景によって著されたもので、黄帝内経とならぶ中国医学四大経典の一つであり、日本で医学経典として長く支持されてきた書籍てある。
外感病(今でいうインフルエンザなど)の経過とその漢方薬が主に書かれている。
有名な葛根湯、麻黄湯、小青竜湯なども傷寒論が元になっている。
鍼灸師が何故、漢方薬の本である傷寒論を勉強するの?と思われるが、外感病に対応する鍼灸を学ぶためである。また外感病だけでなく内傷病(内臓疾患)にも応用できる。
漢方薬では葛根湯が有名で「風邪の初期に葛根湯!」と言われているが、実は傷寒論で葛根湯が出てくるのはそれほど初期ではない。
また症状別に薬が分かれていて「風邪の初期に葛根湯!」と言うのは非常に雑ないい方であると思う。
ちなみに勉強会をやるきっかけは、鍼灸師の元同僚に
「傷寒論の勉強会をやりたいんだけど、場所がなくて高橋先生の整骨院を使わせてくれない?」
と言われたことだ。
勉強会は金曜夜8時からだったが、私も興味があったので快諾した。
講師は天下の「北辰会」藤本蓮風先生の「藤本漢祥院」で内弟子をされたR先生。
勉強会には20名ほど集まり、R先生の講義を熱心に聞いていた。夜8時過ぎから始まり12時を過ぎることもたびたびあったが、皆、学ぶ事に夢中で時間など気にしていなかった。
私は場所を提供してるので休むわけにいかず全て出席した。
金曜の夜に飲みにも行かず、漢方古典を勉強してるなんて奇特な集団だったが、今となってはいい思い出である。
2000年5月1日、28歳の時、春日部中央にて鍼灸整骨院を開業した。
実は働いていた接骨院を退職する時は、その後どうするかは全く考えていなかった。
それまで数年間、鍼灸院で働いてから大学、専門学校のWスクール、日曜もなくバイト、接骨院でも日曜出勤もあり忙しい毎日を過ごしていたので、少し休みたかった。のんびりしたかった。
しかし、実際何もしないでのんびりしていると2週間で飽きてしまった。
さて、どうしよう?
どこかで働くことも考えたが、結局開業することにした。
それから不動産屋さんをいくつか回り良さそうな物件を見た。3カ所ほど候補があったが、結局春日部中央の物件を借りることにした。
物件が決まると後は早くて、2ヶ月位で準備を整え開業となった。
整骨院は最初は妹が受付をやり、私と2人で始めた。
妹は、それまで大学病院の教授の秘書をしていたが、私が「整骨院を開業する」と言うと「受付をやる」と言い出し大学病院を辞めてしまった。
しかし受付がつまらなかったらしく2ヶ月で「辞める」と言って、元の職場に戻ってしまった。妹はその後、医者と結婚したので整骨院を辞めて良かったのだろう。
そんな妹もいたお陰で、整骨院には大学病院から開業祝いのお花が届いた。
整骨院に来た患者さんの中には
「ここの先生は〇〇の大学病院出身で上手いらしいよ。」
と噂をする人もいたが事実は前述の通りである。
また、私の両親が春日部で働いていたので、開業してから両親の職場の人が結構来てくれた。
開業当初は両親の知り合いや、親戚、私の友達などからお花がたくさん送られて、部屋が花でいっぱいになり「ここは花屋?」という感じであった。
開業して3ヶ月ほどは暇であったが、暇な時間はのんびり本を読んで過ごしていた。
3ヶ月過ぎた頃より忙しくなり、それ以降、今までずっと忙しい。
途中、コロナで暇な時もあったが基本忙しく、ありがたい限りである。
私の時代は開業が一つの目標であった。
28歳で開業し患者さんも徐々に来てくれて、春日部に根付くことができた。
2023年、現在、開業してから23年経つ。
あと何年できるか分からないが、もう少し頑張ろうと思う。
これからもよろしくお願いします。
院長高橋のヒストリーをブログで書いております。
今回は鍼灸接骨院修行時代の13回目。
分院長をしていた時、接骨院に「空き巣」が入った話です。
さて、どんな体験だったのか。。
私が分院長になって半年ほど経った頃だったと思う。
接骨院の昼休みは長く、午前診療が終わった後はスタッフ皆でランチに行くのが日課であった。
ランチに行っている間は接骨院は留守であり、その当時は入り口の鍵は閉めてなかった。
今考えると不用心であるが、お金は鍵付きの棚に入れてあったし、接骨院は盗むものもないと思って油断していた。
その日もいつもと同じように午前の診療が終わってスタッフとランチに出た。
ランチをした後、私は本屋に行きたかったのでスタッフと別れてそのまま本屋に向かった。
本屋に着いてぶらぶらしていると、スタッフの1人から電話がかかったきた。
スタッフ「高橋先生、大変です!空き巣が入りました!」
私「え!またまた〜。そんなこと言って。だまされないよ〜。」
スタッフ「本当なんです!本当に!」
私「またまた〜。冗談言って〜。」
スタッフ「本当なんですって!本当に空き巣が入ったんです!すぐ来てください!」
私「マシで?本当に?すぐ帰るよ!」
と、私は最初は冗談だと思ったのが、スタッフの真剣な訴えにただ事ではないと分かり、すぐに接骨院に戻った。
接骨院に戻ると、鍵付きの棚が壊されてお金が無くなっていた。
しかし幸いにそれ以外は何も被害は無かった。
それから警察に電話して、少しして警官が2名来た。
警官は1時間ほど実況見分をして、スタッフにいろいろ聞いていた。
私も「思い当たる人いますか?」と聞かれたが、その時は気が動転していたのか、
「特にいません。」と答えた。
しかし、あとで冷静になって思い出してみると、空き巣がある1週間ほど前に怪しい人がいたのを思い出した。
その人は11時半くらいに来て、施術を受けてかえったのだが、妙に目付きが鋭くあたりを観察しているようであり、なんとなく雰囲気が普通の人では無かった。
後日、警察にその事を言ったが
「それだけではどうすることもできない。」
と言われてしまった。
「犯人が捕まったら連絡します。」と言われたが、その後連絡はなかった。
この事があって以来、昼休みは鍵を閉めるようになった。
しかし、今思えば私を含めスタッフが犯人と鉢合わせにならなくて良かった。
若い活気盛んなスタッフが多かったから、鉢合わせになったらかえってお互い危なかったと思う。
接骨院の先生は柔道をやっている。
学校の時の友人はは引ったくりにたまたま遭遇し、犯人を半殺しにしてしまったと言っていた。
確かにコンクリに柔道技で頭から落としたら、かなり危ない。大外刈りで後頭部からコンクリ直撃したら、、、。
私が分院長をしていた頃、毎日接骨院に来る名物おばあちゃんがいた。
私が分院長で配置されるずっと前からその接骨院に来ている。
いつも右手首に包帯をしている。
年齢は、もう80才は過ぎていた。
お年寄りには珍しく夜更かし朝寝坊の生活で、いつも午前の診療の終わりに来ていた。
毎日来て、愛嬌ある性格でスタッフから
「Mちゃん、Mちゃん」
と可愛がられていた。
そんなMちゃんと、ある日お昼を他の先生達と一緒に食べに行った。
いろいろ身の上話を聞いていると、50才の時、旦那さんに先立たれ、それからずっと一人暮らしをしているそうだ。
接骨院は、それから2年後くらいから来ていると言う。
「へーそうなんですか。」
と聞いていたが、
ん?
「初めて接骨院に来たのは何でですか?」
と聞くと、
「手首が痛くて来たんだよ。」と。
「え!まさか、その時から手首が痛いのですか?」
と聞くと、なんとそうらしい。
病院でもいろいろ検査し、軟骨を損傷していると診断されたそうだ。
病院では治療がないと言われたらしい。
「じゃあ、30年間ずっと手首に包帯してるんですか?」
と聞いたら、そうだと言う。
確かに手首を治療する時に包帯を取ると、手首だけ日焼けしていない。真っ白である。
Mちゃんの手首の病名は、手首の外側、小指側の軟骨を痛める
「三角線維軟骨損傷」(TFCC) であった。
これは、非常に治りが悪いので有名である。
外傷や老化でも起こる時がある。
もともと血流が良くなく、回復しにくい箇所である。
当時の私は、痛い箇所に電気(低周波)をしたり、マッサージしたり、鍼することしかできなかった。
今だったら手首に関連する関節の調整するだろう。
手首が治らない人に共通するのは、肩甲骨や首の前の筋肉が硬くなっている。
そして、肩が内に巻いたようになっている。
今思うと、Mちゃんも肩が内に巻いたようになっていた。
ただ一つ気になるのは、旦那さんが亡くなった後に接骨院に来て、それからずっと接骨院に来ていた事だ。
スタッフから「Mちゃん、Mちゃん」と可愛がられ、毎日接骨院に来て、よくスタッフと昼食を食べに行っていた。
そんなMちゃんの手首は、今思えば、治らないのではなく、治りたくない手首だったのかもしれない。
手首がなおってしまったら接骨院にくる必要がなくなってしまうから。
そんなMちゃんは、私の思い出に残る患者さんの1人である。
最近のお婆ちゃんは皆、若くオシャレでMちゃんのようなお婆ちゃんらしいお婆ちゃんは少なくなった。
接骨院で働いて3年ほど経った頃、ある分院の分院長が辞めることになり私がそこの分院長として配属になった。
それまでいた分院は患者さんが1日60〜80人ほどでスタッフが5人ほどたったが、配属になった分院は1日30人ほどの患者さんをスタッフ2人でやっていた。
配属されて行ってみると、今までの大人数を多数のスタッフで施術するのと違い、患者さんとの距離が近くアットホームな接骨院であった。
少し働き出すと、患者さん1人1人にかけられる時間が長く、ゆっくり施術ができて「こういう院もいいな〜。」と思った。
思えば、最初に弟子入りしたG鍼灸院は1日200人もの患者さんが来て、息もつかないほどの忙しさであった。患者さんとゆっくり話してる暇なんて無かった。
また、前の接骨院もかなり忙しかったし、大人数がいるために個人的な話はできない雰囲気だった。
それに比べ新しい分院は時間的に余裕があり、ゆっくり施術できた。
しかし、のんびりできていいなーと思っていたら、だんだん患者さんが増えてしまい2人では対応できなくなり、その後3人体制となった。その頃は1日50人を超えていた。
それから分院長は1年間やらせて頂いたが、開業前に分院長を経験して大変勉強になった。
この後、自分で開業するのだが分院長を経験させて頂いたおかげで開業してからも全く困らなかった。
分院長として治療施術だけでなく事務仕事も勉強できたのが大きいと思う。
開業する前に分院長を経験するのは、開業後に成功するために必要かもしれない。
自分で1つの整骨院を運営する練習になる。