Blog記事一覧 > 10月, 2022 | 春日部市高橋はりきゅう整骨院|鍼灸・腰痛 - パート 2の記事一覧
G先生に弟子入りしてから大学はほとんど行かずに鍼灸院でバイトをしていた。
実際、鍼灸院で働いてみるとメチャクチャ忙しかった。
なんせ1日200人近く患者さんが来るのである。30台ほどのベットは空くことがなく、患者さんで常に埋まっていた。
G鍼灸院に来ている患者さんを見ていると、肩、腰、膝の痛みから内臓疾患、奇病、難病、リウマチ、ガンなどさまざまな患者さんがいた。
また、ほとんどは近所の人だが、遠方から来ている人もいた。
働きだして最初1番困ったのは、患者さんの名前が分からないということであった。
先生に「〇〇さん、これをやって!」と言われるが名前が分からない。
「〇〇さーん!」と探しているうちに
先生から「△△さん、次はこれ!□□さんはこれ!」と言われ、息も忘れるほどの忙しさ中、次から次であり、最初はあたふたするばかりであった。
そんな鍼灸院の仕事だったが、少し慣れた頃に先生から
先生「これから1ヶ月は食事や字を書くのは左手でするようにしなさい。」と言われた。
私「左手ですか?」と答えると
先生「鍼灸でもマッサージでも、左手も右手と同じように使えないとダメだ!左手が不器用なままだと鍼は打てない。」
と言われた。
私は先生の言うままに、その後1ヶ月は左手で食事、字を書くようにした。
最初は食事するにも時間がかかり、食べにくくて仕方なかったが、徐々に慣れ1ヶ月もするとそれなりに使えるようになった。
文字を書くのも同様で、最初は書けなかったが1ヶ月もすると下手だが書けるようになった。
左手が使えるようになると面白くなり、1ヶ月を過ぎても右を使ったり、左を使ったりしていた。
当時は練習の真意も分からず言われるままに左手の練習をしたが、鍼を打つようになり左手の重要性が分かった。
鍼を打つ際、右手は鍼を持ち鍼を打ち込むが、左手はツボの場所を特定し鍼をしっかり固定する役目がある。
左手が鈍いとツボの正確な位置が狂ってくる。また、しっかり鍼を固定できないと鍼を刺す時の痛みにつながる。
なるほどG先生の言ってた事はこれだったのかと数年後に分かった。
また、後に柔整(整骨院)学校の柔道大会で右肩を脱臼し1ヶ月ほど右手が不自由な時があったが、その時は左手でノートを書いていた。
それを柔整学校の先生が見て
「あれ、お前、左利きだったの?」と聞かれ
「鍼の修行で左も使えるようになりました。」と答えたら、「へー!」と驚いていた。
つづく。
「将来、鍼灸をやろう!」と決め、G鍼灸院の先生に相談したのだが、「やめたほうがいいよ。」と言われながらもG鍼灸院に見学に行く事になった。
G先生に「うちに勉強に来てみれば?」と言われ嬉しくなり、大学の空いた日に早速行った。
それまで患者として通っていたので鍼灸院の雰囲気は分かっていたが、実際見学してみると患者さんがとても多くて圧倒された。
患者で行った時はもちろん男性の部屋しか入れなかったが、他に女性の部屋が2つあり、全部でベットが30台ほどあった。
鍼灸院の広さは約30坪ほど、広いコンビニくらいあった。
そこでG先生は仰向けの患者さんに鍼を順々に打っていく。10分くらいしたらスタッフが鍼を抜いて、患者さんはうつ伏せになり、また先生が鍼を打っていく。また10分くらいしたら鍼を抜いて、吸い玉をしたりお灸をしたりいろいろしていた。
G鍼灸院には1日150〜200人ほどの患者さんが来ていた。
そして全ての患者さんにG先生が一人で鍼をしていた。
他の鍼灸院を見たことが無かったので「鍼灸院てこんな感じなのかなー」と思ってたが、この業界のことを知るとG鍼灸院の患者の多さは特別であることが分かった。
鍼灸の業界誌で1日80人に鍼をしているという鍼灸師を見たことがあるが、200人はケタ違いである。
G先生が鍼を刺す時間は見ていると1人20〜30秒ほどであった。
それくらいでないと30台もあるベットをまわれない。
1人30秒✖️30ベットで15分。10分くらいして鍼を抜くとちょうど良くベットがまわるのである。
しかしこれは凄すぎる。
鍼灸師になって自分で鍼を打つようになって初めてG先生の驚異的なスピード、技術の凄さが分かった。
今、私は1人2〜3分くらいで鍼を打つが、遅い鍼灸師は15分はかかる。
時間をかければ丁寧で良いと思うかもしれないが、逆である。上手い鍼灸師ほど短時間で的確に鍼を打つ。
下手くそほど遅く的も外れている。
後に井本整体の練習で何十人もの整体を受けるが、熟練した達人ほど瞬時に反応点を見つけ的確な技術を行う。相手の呼吸さえコントロールする。
逆に下手な人ほど、ツボを探すのに時間がかかり、そのわりにポイントもズレて全く効かないのである。
G鍼灸院の最初の見学をして、それから何回か見学をさせてもらったが、やはり鍼灸師になりたいという気持ちは変わらず
「G先生のところで勉強させて下さい!」
と申し出た。
しかも、私はすっかりその気になっていて
「大学を辞めて鍼灸院で勉強します!」まで言うと、G先生は冷静に
「大学は卒業しなさい。一度決めた事を中途半端で辞めるのは良くない。」と諭された。
G先生に諭され、それから大学に行きながら鍼灸院でバイトすることになった。弟子入りという形であった。
ちなみに大学の法学部は試験一発勝負の科目が多かったので、それからほぼ大学は行かずに鍼灸院で過ごすことが多くなった。
治療家への道 『完』
「鍼灸院になろう!」と決めてから、まずは父に相談してみた。
父は、「G先生のところは混んでるけど、他の鍼灸院はガラガラだよ。鍼灸で生活できるのかな?」と心配していた。
そらから治療に行った時にG先生にも相談したが、父と同じように
「鍼灸じゃ食べていけない。やめときな。大学行ってるんだったら普通に就職した方がいいよ。」
と言われた。しかし、私は
「僕の腰痛はどこにいっても治らなかったのが先生の鍼で治りました。先生のようになりたいんです!」
と言うと、G先生は少し考えてから
「それじゃあ少し勉強に来てみれば?実際、鍼灸を見てから考えてもいいんじゃない?」
と言われた。
私はG先生のところで勉強できるのが嬉しく「はい、よろしくお願いします。」
と即座に答え、ますます鍼灸師になる志しを強くした。
大学生の私はお金とか生活の事とか全く考えてなく、ただ「G先生のようになりたい」の一心のみであった。
しかし今、年を取り社会を経験し思えば確かに父やG先生の言う事は分かる。
鍼灸師はやり甲斐のある仕事だが、金銭的には厳しい。好きじゃないとやるべきではない。
鍼灸師は雇われて働いても、就職先は個人経営が多いので、給料も低く週休1日、有給休暇なし、ボーナスなし、退職金なし、社会保険なしの院がほとんどだ。(高橋はりきゅう整骨院はありますよ!)
たとえ開業してもサラリーマンの平均年収を稼ぐのは難しい、開業してサラリーマンの平均年収くらい稼げたら大成功だと思う。
しかも、もちろん開業したら有給休暇、ボーナス、退職金もない、健康保険は自分で加入し年金も国民年金だけである。病気で働けなくなったら収入もなくなる。そんな厳しい世界である。
なので、社会を知った人なら「本気でやる気がないのならやめときな。」と言うのも分かる。
鍼灸師の厳しい点ばかり書いたが、良い点としては仕事をして患者さんに喜んでもらえる。
喜んでもらえ自分も嬉しい。直接「ありがとうございました。」と言ってもらえる。
その点は最高の仕事だ。
私は今までこの仕事をしてきて多くの治療仲間、患者さんと出会った。楽しくもあり、やり甲斐のある仕事だったと思う。
思い出に残る楽しい患者さんとの出会いもあった。
この仕事は、患者さんを治療し私が患者さんを助けてると思われるが、実は私も患者さんに生き甲斐をいただいるのである。
感謝、感謝!
つづく。
大学は駒澤大学の法学部に入った。
サークルは高校の時にギターをやっていたので軽音サークルに入るか迷ったが、軽音サークルに入ると音楽漬けになり留年するだろうと思いやめた。実際、いくつか軽音サークルに見学や新歓コンパに行ったのだが留年してる先輩がたくさんいた。
しかし、どこにも入らないのもつまらないので何かに入ろうかと探していた。
「陶芸部」を見学したら居心地がよく、先輩も面白い人がいたので入った。
ちなみに面白い先輩はお笑い芸人を真面目に目指しており、ネタなども作っていた。
そんな陶芸部は大学では伝統ある部であり、一般サークルと違って部室があった。
一般サークルは部室はなく、庭に簡易的なイスと机を置いて集まっていたり、学食を占領しむろったりしていた。
陶芸部の部室はプレハブ小屋であり、小屋の隣にはちゃんと陶芸釜もあった。また部室では猫も飼っていて、授業がない部員が集まっておしゃべりをしたり憩いの場になっていた。
ちなみに、私が行っていた駒澤大学は大学と短大が同じ校舎で学生が多く、軽音だけで7つ以上、テニス、野球、サッカーなどの人気のあるスポーツは部とサークルだけでそれぞれ10〜20はあり、その他、ゴルフ、社交ダンス、落語、アメフト、人形劇、演劇、飲み会専門など様々な部、サークルがたぶん200以上あったのではないかと思う。
大学生活では授業と授業の間に空き時間があり、特に法学部は出席よりもテスト一発勝負の科目が多く授業にでない科目もあるので、私は大学に行っても部室にいることも多かった。
そんな時など暇な時間を使い陶芸に没頭していた。大学に行って陶芸だけして帰る日もよくあった。
一時期は、本気で陶芸家になろうかな?と思うほどであった。
もちろん陶芸家にはならなかったが、後に陶芸の技術が鍼灸マッサージに活かされた。
そんな感じで大学生活を送っていたが、大学2年も後半になると友人と将来の仕事ついて語り合うこともあった。
法学部の友人は半分以上は公務員志望であったが、中には「裁判所で働きたい」とか「弁理士」になりたいと言っていた友人もいた。その後どうなったかは不明である。
それまで私は将来について真剣に考えた事はなかったが、「そろそろ考えないといけないかな」と真剣に考えると、
公務員、陶芸家、サラリーマン?
自分は何をすべきなんだろう?
なんとなく考えていると、高2の時に「鍼灸!」というインスピレーションを受けた感覚がよみがえってきた。
鍼灸か。。。
そういえば、自分はあのまま腰痛のままだったら暗い人生だったかもな。
将来に希望もなく腰痛を感じたままの生活だっただろう。
あのままの人生だったら私はまるで死んだような人生だった。
そっか、どうせ一度は死んだと思えば、これからの人生は自分と同じように苦しんでる人を助ける人生にしたい。
どうなるか分からないけど、人生一回きりだし。
だめなら他の仕事を探せばいい。やるだけやってみよう!
今までボーっと過ごしていたが、急に「鍼灸がやりたい!」と思うようになった。
そう思ったら、やっぱりG先生しかいない。
今度、鍼灸院に行った時にG先生にこの事を話そう!
なんだか急に胸にこみ上げるものがあり「鍼灸師」になろう!との決意ができたのであった。
つづく。
大学生になってもG鍼灸院に週に一回は通っていた。
G先生に「もっと良くなりますよ」と言われたとおり身も心もみるみる元気になった。
腰痛もすっかり治り、内面も高校の時の暗い陰気な性格から明るく前向きな性格に変わった気がした。
週一回鍼灸を受けるようになり、鍼灸の素晴らしさを毎回実感していた。
鍼灸を受けた後はすごく体が軽くなる。
体中の細胞がみずみずしく生まれ変わったような何とも言えない爽快感を感じることもたびたびあった。
またG先生の鍼を受けるたびに「なんでそこが分かるの?」というように、やって欲しいツボに的確に寸分狂いなく鍼が当たってくる。
「そこそこー!なんで分かるんですか?」って感じだ。
そして刺された鍼が呼吸によって動く事により体中に心地よい響きとなり広がった。
こんな鍼を体感したのは今でもG先生だけである。
G先生はいとも簡単にやっていたが、これは鍼灸師となった今考えると非常に高度な技術である。
反応あるツボを的確に探し、深さ、角度、0.1mmの狂いもなく鍼を刺す。しかもそれを十本以上の鍼、全てで行う。至難の技である。
後に私は井本整体で「硬結」と呼ばれる反応点を探す練習をするが、「硬結」は鉛筆の芯ほど大きさあり、それを指で捉えるのも難しい。場所、深さ、角度を正確にとらえなけらば真の響きはでない。まして、そこに鍼を正確に打つなんて尋常ではない、究極の技である。
しかし、それができたからこそ鍼灸の真の力が発揮できたのだろう。今の私にやれ!と言われてもできるかどうか。。やる努力はしてますが。。
ちなみに私は鍼灸師になり有名な鍼灸師や、偉い鍼灸師はじめ何十人の鍼を受けたが、G先生のような体がリフレッシュされ体中からエネルギーが湧き出すような感覚になったことはない。
ある時は高名な先生の鍼灸を受けに関西まで行ったが、全く楽にもならず何も感じることもなく疲れて帰ってきた。
有名な先生や偉い先生だから実際の治療が上手い訳ではないのだ。そういう先生方はどちらかというと学問に優れていたり、鍼灸師会の活動を頑張っていたりするのだろう。
さて、G鍼灸院では木曜に鍼灸院の1室で気功体操会が行われており、大学生だった私も鍼を受けるついでに参加していた。
そこでG先生とは別のもう一人の恩人M先生と出会うことになる。
気功の会のことはまた後日書きます。いろんな不思議体験があります。
つづく。
父の紹介で行った鍼灸院では12月の寒い中、パンツ一丁で1時間近く待たされ治療は受けたものの怒りながら帰ってきた。
しかも、鍼治療も問診もなく少しお腹を触っただけで鍼を打たれ先生と交わした言葉は一言だけであった。
そんな鍼灸院から帰って1日が終わり「変な鍼灸院だったなー。」と思いながらその日は寝た。
しかし次の日、起きてみると
「えっ!腰が全然痛くない!!」
「全く痛くない!」
2年半以上痛かった腰痛が、たった1回の鍼で痛みが全く無くなってしまった!
「信じられない!」
「どうして?すごい!」
昨日は二度と行くもんか!と思っていたのに痛みがなくなり、またあの鍼灸院に行かなければ!と思った。
そして次の週に鍼灸院に行った。
先生に
「どこに行っても治らなかった腰痛が治ったんです。ありがとうございました!」
と興奮気味に言った。
先生は、さも当然と
「良かったですね。もっと良くなりますよ。」と一言言っただけであった。
(カッコいい!渋すぎる!)
え!でも、もっと良くなる?どういう事?
先生の言った意味が分からなかったが、それから週に一回通うようになった。
腰は1週間経つと痛くはないが少し重い感じがした。しかし鍼を打ってもらうとすごく体が軽くなった。
それからなんと実に3年間、その鍼灸院に通った。後半は鍼灸院で週に一度の気功体操会があり、それに参加して鍼も受けていた。
高1から痛かった腰痛は高3の12月にその鍼を受けてから50歳になった今までほば痛くない。1回だけ引越しの時、荷物を持ち過ぎて痛くなったがそれもすぐに治った。
私の高校生活はほば全て腰痛だった。
病院では検査の結果「異常なし」で、腰痛さえ認めてもらえず絶望した。
いろんな治療を受けたが良くならず将来に希望も持てず暗い高校生活であった。
今考えると、高校時代の腰痛は何だったのだろう?
つらかったが腰痛になり何人もの治療家と出会った。様々な治療法を受けた。
腰痛に悩む患者さんの気持ちも痛いほど分かった。治らないつらさも知った。
そして最高の鍼灸師の先生に巡り合った。
『腰痛は何だったのだろう?』
治療家となった今だから思えることがある。
本当につらい腰痛にならなければ患者さんの気持ちは分からなかっただろう。
腰痛になって様々な治療を本気で受けなければ、その良さも悪さも効果も分からなかっただろう。
いくら本を読んでも学校で習っても自分の体で体験しなければ本当のつらさ、治った喜び、患者さんの気持ちは分からない。
高校時代の治らない腰痛は、
治療家になるため、
様々な治療を体験するため、
患者さんのつらさを知るため、
最高の鍼灸師に出会えるため、
私に与えられた最高のギフトだった事に最近になってやっと気がつく事ができた。
腰痛に感謝!
腰痛高校生『完』
高1の6月から特に原因なく腰痛になってからそのまま腰痛は治らず、気がつくと高3の12月になっていた。
病院に行っても「異常なし」と言われ、いろいろな治療を受けたが効果なく
「このままずっと腰痛は治らないのでは。」と将来に希望も持てないまま高校生活も終わろうとしていた。
学校は高3の12月になると受験前になり午前だけで終わる日も多くなっていた。
午前で終わるので時間に余裕ができ、なんとなく心にもゆとりを感じられた。
そんな時分からか、以前父から紹介された鍼灸院に行ってみようかなと思えるようになった。
その鍼灸院について父は会社の人から「凄く患者さんが多くて、とても鍼が上手い先生だよ。」と聞いたようだ。
父からその鍼灸院を紹介されたが、私は以前鍼灸を受けたが全く効果がなかったので行く気がしないままであった。
その鍼灸院の住所は、私の机の引き出しの隅に小さなメモ書きでしまわれていたが、いつ無くなっても気づかないくらいに存在さえも忘れかけていた。
そんな状態であったが、何かで引き出しを開けた時、その紙がなんとなく気になった。
「時間もできたし行ってみようか。」と高3の12月、思えたのだ。
後日、学校が半日で終わった日に友達と昼ご飯を駅で食べてから一人で鍼灸院に向かった。
鍼灸院は都内だったが、埼玉寄りであり電車も乗り継ぎなしで40分ほどで着くところだった。
住所と鍼灸院名しか分からなかったが、とりあえず近くの駅で降りてタクシーで行けばいいやと思い向かった。
駅に着きタクシーに乗り鍼灸院の住所に向かったが、それらしい鍼灸院がない。
困っているとタクシーの運転手さんがいい人で、近所の人に聞いてくれた。近所の人の話では鍼灸院は少し前に近所に移転したそうだ。移転先を聞き、そのままタクシーで向かった。
鍼灸院に着いたのが、午後の診察が始まる少し前でちょうど良い時間だった。
受付を済ますと
「中に入ってパンツだけになって仰向けで待ってて下さい。」
と助手らしき人に言われた。
言われた通りパンツだけになってベットに寝て待っていた。季節は12月で部屋の暖房はついていたが寒い。
そのまま待っていたが、、
20分、、まだかな?寒いな。。
30分、、まだ来ない。まだ(怒!)寒い。
40分、、まだ来ない。何ー!寒い!
50分、まだ来ない。どうなってるのー!?
パンツ一丁の格好をさせておいて寒い中いつまだ待たせるんだ!!と完全に頭に来ていた。
(これは今思えば助手のミスであり先生は悪くなかった。ちなみにこの助手を見たのはこの時のみで以降見ることはなかった。)
1時間ほど経った頃、5台ほどあったベットは患者さんで埋まっていた。
それから先生らしい人がやっと来た。
完全に頭に来ていた私は
「ずっと腰が痛くて治らないんです!」
とぶっきらぼうに言った。
先生は冷静にお腹を触って
「腸が悪いね。君、腸を治さないと一生治らないよ。」
と言うが早いか、お腹に鍼を何本か刺してスーといなくなってしまった。
それから10分ほど後に助手が鍼を抜きに来て、次にうつ伏せになった。
また先生が来て肩から腰に無言で鍼を刺してスーといなくなった。
10分ほど経った頃、助手がきて鍼を抜いて
「今日は終わりです。」
と治療は終わった。先生と話したのは最初の一言だけであった。
治療室は来た時はあまり人がいなかったが、帰りはずいぶん人がいることに気づいた。
しかし私はそんなことより「こんな鍼灸院、二度と来るもんか!」と完全に頭に来て鍼灸院を出た。
帰りの道で腰が軽い気がしたが、治療後に軽くなるのは何回かあったので
「受けた後に楽になるのは当たり前だよ。寒い中、裸で1時間も待たせて風邪ひいちゃうよ!二度と来るもんか!」
と怒りながら帰った。
つづく。
高校生の時に腰痛になって「整体」にも行った。ただ、この時に行った整体は「野口整体」系の整体ではなく、いわゆる民間手技療法のところであった。「野口整体」の説明は後で井本整体の時に詳しく書きます。
この時行った整体は、爺ちゃんが連れてってくれた。なんでも昔は100人くらい行列ができる程の人気だったらしい。爺ちゃんオススメの整体院であった。
茨城県にあり自宅から車で30分のところであった。車でないと行けない辺ぴな場所だった。
私が初めて行った時は2.3人待っている程度であった。
年配の先生が一人でやっていて待合室と治療室、それぞれ6畳くらいの広さであった。
初診にて私の骨盤を先生が触って
「赤ん坊の時に歩行器乗っただろ?」と聞かれた。が、私も爺ちゃんも分からなかった。
後日、母に聞いたら乗ってたらしい。
2回目行った時にその事を言うと、
「赤ん坊の時に歩行器に乗ったのが原因だ!その為に骨盤が狭くなっている!」と説明された。
そう言われて学校で友人と比べたら確かに狭い感じがした。
高校生の私はもちろん素人なので、それが原因なんだ!と信じて通い出した。
治療は骨盤を広げる為に仰向けの私の左右の骨盤の前の骨(上前腸骨棘)に立って乗っかり広げるように体重をかけて、よいしょ、よいしょと足で広げる動作をした。
今思うと大そうな荒治療であり、そんなことして大丈夫?って感じだが、骨盤は強靭でありびくともしなかった。
それから足で背中や脚を踏んでマッサージして、カイロで使う木槌で脚を叩いたりした。
全体に荒治療であり刺激が強かったせいか終わると楽になったような、痛みが麻痺したような感じがした。
それから骨盤が広がれば治ると信じ、週一で通った。
また当時の私の心境として病院でも異常なしと言われ、他でもはっきりした事は分からなくて、とりあえず痛みの原因が分かった(?)だけでも嬉しかった。
その後4ヶ月ほど通ったが、根本的には良くなってなく、また車でないといけないためにだんだん行なかなくなった。
今、治療家になった私としては「歩行器で骨盤が狭くなった為に腰痛になった」という話は、ないと思う。ただこの治療法で仙腸関節に何からの作用があり腰痛が治るのはあり得るかもしれない。
骨というのは硬いのでずっとそのまま変化しないと思われるが、実は常に新しい細胞に作り替えられている。
とくに子供の頃は例え骨折して変形したとしても大人になるにつれ徐々に真っ直ぐに治っていることもある。
仮に小児の時に歩行器で骨盤が狭くなったとしても、そのまま狭いまま成長すると考えにくい。
つづく。
高校生の時、腰痛でカイロプラクティックにも2ヶ所行った。
カイロプラクティックとはアメリカ発祥であり身体の構造(特に脊椎)と機能に注目した手技療法を特徴とする療法である。 施術法は様々で、主に脊椎やその他の身体部位を調整することにより、痛みの軽減、関節可動域や機能の改善、身体の自然治癒力を高めることを目的としている。
アメリカでは「カイロドクター」として正式な医療資格になっているが、日本においてはカイロプラクティックは国家資格ではない。
そんなカイロプラクティックだが、私が行った1ヶ所目は越谷にあった、
通学途中の道で看板を見て行ったのだと思う。
私が「カイロプラクティックに行く」と言ったら友人も「治療を見てみたい」と一緒に付いてきた。
そこはマンションの一室でおじさん一人でやっているようだった。高校生2人組が来るのが珍しいのかお菓子をたくさんくれた。友人は待ちながらお菓子を食べていた。
カイロプラクティックの治療は、大きな木槌とT字の木で背骨や腰を叩く治療だった。
背骨を触り「ココがズレている」と言いながら木槌で背骨をトントンとされる。
背骨を叩かれて気持ち悪かったが治るのかと思って我慢していた。しかし治療が終わっても全く良くなっていなかった。ほぼ行った時と変わらず一回しか行かなかった。
なんとなく先生も自信ないような頼りない感じがした。
一緒に行った友人は、お菓子をたくさん食べれて満足し「カイロプラクティックって良さそうだね!」と言っていた。
2ヶ所目のカイロプラクティックは健康雑誌で見つけた。名前は忘れたが都内の有名なカイロプラクティック院のようだった。
行ったらとても広い治療室でベットが30台くらあって、先生も10人くらいいた。
そこでは、まず近くの病院に連れてかれ背中や腰のレントゲンを撮った。そのフィルムを持ってカイロ院に戻った。
カイロ院では、先生がフィルムに鉛筆で縦横に線を描き、骨盤がどうとかこうとか、背骨がどうとかこうとか説明してくれた。
高校生の私は「ふーん、そんなもんなのかなー」と思って聞いていた。
治療はまずマッサージを30分ほどした。
それから偉そうな先生が20分くらいカイロ専用ベットでガシャンガシャンしてくれた。
治療後は凄い楽になった。
もしかして治るかも?と期待していたが、次の朝には元に戻っていた。
それでも治療後はすごく良かったので6回ほど通った。しかし、そこは東京でも神奈川に近い東京で春日部からは遠かった。通うのも大変だった。
そして通ううちに、良くなっているのはカイロプラクティックではなく、その前のマッサージで良くなっている気がしてきた。
最初にマッサージを受けた後、カイロベットに行く途中にすでに腰痛が消えてる。
ガシャンガシャンやられたけ後は特に変わらない。
これは今だから分かるが、この時のマッサージは「指圧」だった。
マッサージと指圧、何が違うの?と思われると思うが、手技療法は「あん摩」と「マッサージ」と「指圧」はやり方が違う。
「あん摩」は筋肉に圧を加え手を揺らし筋肉をほぐしていくやり方であり日本古来の療法である。
「マッサージ」は体の遠いところから近いところに向かって撫でるようにして血液、リンパ液の流れを良くしていくやり方であり、西洋が発祥でオイルなどを使うのが正式なやり方である。
「指圧」は、拇指を使って筋肉やツボに圧をかけていくやり方で、手は揺らさない。浪越徳次郎氏やその時代の療術家によってつくられた療法である。
ここでの「指圧」は指圧の専門学校の出身者だったのかもしれない。凄く上手かった。
ここでは本物の指圧は気持ちいいし楽になるのを知った。
しかし結局、ここのカイロプラクティックでも腰痛は治らなかった。
つづく。
高校時代、腰痛が治るまでに接骨院、整骨院にあらためて数えると5ヶ所も行っていた。接骨院は一番身近でもあり通いやすかったのかもしれない。
2ヶ所はすでに書いたが、他にも3ヶ所行った。
3ヶ所目は昔からある接骨院で上手いと評判のところであった。
親から紹介され行ってみると、おじいちゃん先生が一人でやっている接骨院だった。電気治療はなく、腰をさするようなマッサージを5分くらいしてから和紙の黒い湿布(通称どろ湿布)を腰に貼り、晒しを巻くというものであった。「上手い」と聞いて期待して行ったのだが、「え!これだけ?」って感じで、拍子抜けして帰ったことを覚えている。
これは今だから言えることだが、接骨院は本来、骨折、脱臼、打撲、捻挫などの外傷のスペシャリストである。ここの先生は外傷が得意だったのだろう。
4ヶ所目の接骨院は、私の親戚のおじさんの友人がやっている接骨院だった。
私の腰痛が治らないと聞き心配しておじさんが連れてってくれた。しかし、問診し電気と10分はどのマッサージの施術を受けたがあまり良くならなかった。腹筋を鍛えるように言われやってみたが、全く変わらずやめた。1回行っただけであまり印象に残っていない。
5ヶ所目は高3の夏頃、「もう腰痛は治らない」と諦めてどこにも行かないでいた時期だったが、自宅近くに新しい接骨院ができたので行ってみた。
簡単な問診をして「腰が痛いの?じぁあマッサージと電気するね。」と、何が原因とかは言わないで、ただマッサージと電気を受けた。しかし思いのほかマッサージが上手い先生だった。
近所だしマッサージも上手かったので週に2回ほど1ヶ月通っていたら、ある日、奥さんと思われる人とヒソヒソ裏で話してるのが聞こえてきた
先生「あの子、なんで来るのかな?」
奥さん「痛いんじゃないの?」
先生「なんで痛いのかな〜?」
奥さん「知らないわよ。」
みたいな会話だった。
今の施術する側になった私からするとありえる話だが、当時の高校生の私は
「なんか来ちゃいけないのかな?」
と思い行かなくなってしまった。
そんな感じで接骨院、整骨院を5ヶ所も行き治療を受けたが、総じてあまり良くならなかった。
というのも当時の接骨院は外傷がメインであり慢性腰痛などは専門外だったのかもしれない。
ちなみに接骨院、整骨院の資格の正式名称は「柔道整復師」という国家資格である。名前に柔道とつくのは柔道で怪我をした人を治すのがルーツになっているためである。
なので古くからある接骨院の隣には柔道場があったりする。
私が柔道整復師の学校に行った時は、まだ師弟制度のようなものがあり、同級生も何人か偉い先生の接骨院に住み込みをしていた。いわゆる弟子修行というやつだ。
ある友人は朝は先生の犬の散歩、それから学校に来て、帰って接骨院の仕事、夜は柔道の練習。それで給料(?)月2万とかだった。
今風に言えば、超ブラック、パワハラ当たり前の世界であった。
それが嫌で学校を辞めた同級生も何人かいた。
現在は師弟制度はなくなったと思う。
しかし師弟制度も良いところもある。特に技術が勝負の世界は、学校では教わらない技術というものがあるものだ。
私も鍼灸の先生に弟子入りしたが、弟子入りした事が今の自信に繋がっている。
つづく。