Blog記事一覧 > 院長ヒストリー | 春日部市高橋はりきゅう整骨院|鍼灸・腰痛 - パート 3の記事一覧
柔整学生2年生からは午前は渋谷の学校、午後3時からは越谷の鍼灸接骨院でバイトという日々であった。
私がバイトした鍼灸接骨院は分院が当時8院ほどあった。私と同期に入った先生は6人ほどいて、たまに集まって勉強会、飲み会などして情報交換をしていた。
私が配属された分院は、分院の中でも1番忙しく1日70〜80人程来ていた。1番忙しい時は100人越えた時期もあった。
入った当時は鍼灸はまだ任せてもらえず、ひたすらマッサージする日々であった。
忙しい日は15〜20時までほぼ休憩なしでマッサージしていた。
マッサージしていると汗をかき水分を飲みに行く暇もない。自然と汗が乾き、また汗をかく。そして、また汗が乾く、そんな感じであった。しかし、仕事後に飲むビールは最高であった。
当時は仕事後に同僚と鍼灸や手技療法などについて飲みながら議論するのが楽しかった。
若かったのでエネルギーが有り余っていたのだろう、夜中まで飲んで次の日6時に起き、午前は渋谷の学校に行き、午後はひたすらマッサージ。そんな日々も苦ではなかった。
しかし、当時を今思えば、まだまだ未熟であった。
当時の治せなかった患者さん達は今でも覚えている。
今だったら治せるだろうと思う。
当時は理論も確固たる施術法も確立せず、ひたすらに暗中模索の中、マッサージしていた。
マッサージをしながら「いつか鍼灸でたくさんの人を治したい!」との熱い思いを胸に秘めていた。
つづく。
鍼灸接骨院に入り私が配属された分院は越谷にあった。そこの分院長は鍼灸の「良導絡」というやり方をしていた。
良導絡とは何?
↓↓
良導絡治療とは、学術的な正式名を、“良導絡自律神経調整療法”といい、『皮膚通電抵抗を介して、交感神経系の興奮性を客観的にとらえ、統計学的データを基にして全身的、局所的に異常興奮性を、生理的いわゆる健康人の興奮性に近づけようとする治療法』と定義されています。
すなわち、合理的な治療部位に適性刺激を与え、疾患の治療あるいは予防、健康増進を目的とする治療法で、体表における交感神経調整療法ということができます。
が説明ですが、
簡単に言うと、皮膚を電気抵抗を測る機械を使って測定し、ツボのバランスを観察して治療するやり方です。
「良導絡」は鍼灸師だけではく医師も行なっていて、良導絡学会に行くと半分は医師なのです。
昭和20〜30年頃に特に流行ったらしく、テレビでも良導絡を使った番組があったらしい。
良導絡の鍼は、通常使う鍼ではく昭和鍼管と呼ばれる鍼を使い、鍼に直流電流を流して治療します。
良導絡の良い所は、機械を使って測定しツボが数値化され分かりやすい、慣れれば誰でもできる点です。
悪い点は測定に時間がかかる点だが、これも慣れれば数分で終わります。
ツボの電気抵抗を機器で測定し治療していくやり方なので、よく言えば客観性がありデータ化しやすい、悪く言えば人間味がなく味気ない。
私も開業してから良導絡を少しやってた時期があった。しかし整骨院ではあまり時間をかけられないのと、運動疾患の患者さんが多いので良導絡の自律神経調整治療が合わず結局やめてしまった。
しかしながら当時200人ほど測定したが、2名ほど大きな異常を示した患者さんがいた。
その時は大した症状はなかったが、その内の1名は半年後に心臓発作で亡くなってしまった。
もう1名は連絡をとってないのでその後どうしているか不明である。
亡くなった患者さんは、たまたまだったのか、既に何らかの兆候があったのかは分からない。
つづく。
私が研修した鍼灸接骨院では鍼灸学術団体の『北辰会』の治療法を推奨していた。
鍼灸団体『北辰会』は鍼の家系の14代目のカリスマ鍼灸師、藤本蓮風氏が率いる鍼の学術団体である。
中医学をベースに日本古来の鍼灸術も加えた施術法であり、理論、学術共に素晴らしい。また北辰会所属の先生方は皆かなり勉強していて勉強会に行くと圧倒されてしまう。
藤本蓮風先生は素晴らしい著者を何冊も出しているので興味ある方は検索してみて下さい。
私が一番好きなのは「経絡経穴」である。
ツボが書かれた本であるが、蓮風先生の口語調で書かれており非常に読みやすく面白い。
ツボの実際の活用法や鍼の刺し方、体験談などが書かれており、よくあるツボの本より臨場感あり勉強になる。私はこの本に赤線を引き引き10回以上は読んだと思う。また、今でも気になるツボを見返したりしている。
しかしながら、鍼灸接骨院で働き始めた当初は私の鍼の師G先生の方が優れていると思って真剣に北辰会を勉強していなかった。
が、毎日の臨床の中『北辰会』方式で治っていく患者さんを目の当たりにして、徐々に勉強するようになっていった。
『北辰会』の鍼の特徴は本数が少ないことだと思う。舌診、腹診、脈診、背候診、切診(皮膚診)など多角的な観察、1時間近い問診を行い確固たる弁証(診断)をする。
弁証をもとに厳選したツボ(1〜3穴)ほどを施術し、その有効性を実証していく。
私はコロナウィルスが蔓延する前、2019年に藤本蓮風先生の治療院「藤本漢祥院」に見学治療に行った。
実際、患者になって鍼治療を受けさせて頂いた。
私の場合は左足の「照海」の1穴のみであった。
治療はどうだったかというと、レジェンドの蓮風先生に鍼をしてもらい感激しそれだけで整った気がした。
北辰会は理論が難しく勉強が必要のため誰でもできる治療法ではないが、東洋医学、鍼灸を極めたかったら一度は勉強すると良い。
藤本蓮風先生は紛れもない現代鍼灸における巨人である。
つづく。
私が接骨院で修行してたのは今から約30年前、19
93年頃だった。
今は2023年だが、この30年で接骨院もかなり変わった。
1990年代のころの接骨院は、まだ骨折、脱臼、捻挫、打撲などの外傷が多かった。
私のバイトしていた鍼灸接骨院は1日60〜80人程の来院があった。足首の捻挫は常に2、3人はいたし、骨折も月に1〜3人ほど来ていた。
しかし、この頃の接骨院では骨盤矯正、整体などはほぼやってなかった。たまにマッサージ延長する人がいたが、忙しくて骨盤矯正、整体はやっている暇がなかった。
私が開業した約20年前、2000年頃もまだ外傷が多く、骨盤矯正などやっている院は少なかった。
接骨院、整骨院で骨盤矯正、整体などをやるようになったのはいつ頃だろうか?
鍼灸、接骨院の専門学校が規制緩和により爆発的に増えた頃から骨盤矯正、整体などやる院が増えた気がする。
またこの頃から接骨院のチェーン店が増えてきて、チェーン店で骨盤矯正、整体などを取り入れられるようになったのだろう。
最近は柔道整復師の資格を持っていても健康保険はやらずに自費の整体で開業する人が増えている。
うちの最近開業した元スタッフ3人は完全自費の整体スタイルである。
今や接骨院、整骨院は外傷のみだと経営できない。
私は50歳なので今のスタイルでやっていけると思うが、若いスタッフはこれからやっていけるのか?
今までのように黙っていても患者さんが来る時代は終わった。
これからは日々勉強し真面目な施術家のみ生き残っていくと思われる。
つづく。
鍼灸、柔整のWスクールも鍼灸を卒業し柔整があと2年間残っていた。
鍼灸を卒業し午前中は柔整学校で、午後からは接骨院か整形外科でバイトしたいと思っていた。
しかし、バイトするにしてもなるべく鍼灸を力を入れている院が良かった。
当時はネットはなく仕事を探すのは業界誌『医道の日本』しかなかった。学校の帰り道で鍼灸を力を入れている接骨院グループが載っており、そこに電話をかけ
バイトすることになった。
今思うと、たいそう生意気なのだが面接の時に、
「実際にここのやり方の鍼灸を受けさせて下さい。」
と言って、鍼灸をやってもらった。
今までG鍼灸院で受けていた鍼灸とはかなり違うやり方だった。
G鍼灸院ではお腹、背中に20本位打つが、そこは2本しか打たなかった。
施術を受けた後は特に変わった感じはしなかったが、次の日、体調がよいのを感じた。
後にここで働いて、この鍼灸のやり方も勉強するが、中医学に基づき多角的観察を行い東洋医学的な診断(弁証)をして、ツボを決定する非常に洗練されたやり方の鍼灸である。
つづく。
鍼灸学校、柔整(接骨院)学校のWスクールは1年間で、それが終わったらマッサージ店は辞めて、接骨院か整形外科でバイトしようと決めていた。
ただバイトしていたマッサージ店は居心地が良かったし、仲良くなったスタッフとの別れが名残惜しかった。
スタッフは同年代が多く楽しい職場だった。
そんな居心地の良いマッサージ店の話ですが、
最初に入ったのは私で、私の友人が次に入り、それから柔整のクラスメイトが次々に入り、最終的に10人ほどが入った。
店も店舗を急拡大している時でスタッフが必要だったため、不採用はなく雇っていたようだ。
しかし、気がつくと柔整クラス60人の中の10人ほどがこのマッサージ店でバイトするという異常事態になってしまっていたのである。
異常事態というのは、一般的に柔整の学生は接骨院や整形外科でバイトしながら勉強するのが当時の主流だった。
それは柔整の専門の骨折、捻挫、脱臼、打撲を学生のうちから学ぶのが将来に役立つからだ。
しかし、当時の接骨院は師弟制度の名残りがまだあり今でいうブラック企業だった。給料も安く、パワハラ当たり前、有給休暇なし、ボーナスなし、残業当たり前の世界。
働くといより修行という感じであった。
それに比べれば、このマッサージ店は大手下着メーカーの子会社のため社会一般の労働環境が整っていた。
個人経営の整骨院、鍼灸院では「有給休暇」「残業」という概念がなかった
接骨院で弟子修行しながら学校に来ていたクラスメイトは目が死んでいつも疲れ切っていた。
それに対しこのマッサージ店でバイトしていたクラスメイトは楽しそうであった。
なので自然にマッサージ店でバイトする人が増えたのだろう。
私はそれから鍼灸学校を卒業しWスクールも終わり、鍼灸の国家試験も無事合格した。
予定通りマッサージ店のバイトは1年で辞めた。
鍼灸学校は卒業したが、まだ柔整学校が2年間残っていた。
柔整学校は午前のみであったため、午後どうしようか迷ったが鍼灸接骨院でバイトすることにした。
接骨院でバイトするとしても鍼灸に力を入れている院がよかった。
業界誌の「医道の日本」の求人で探すと学校から自宅の途中に鍼灸に力を入れている鍼灸接骨院があった。
そこに電話をして面接してもらえることになった。
つづく。
渋谷2号店に移動して半年ほど経った頃、銀座に新店舗がオープンすることになった。
またも私はオープニングスタッフになり銀座に配属になった。
ちなみにオープニングスタッフは新店長が好きなスタッフを選んで本部と相談して決めるらしかった。
銀座店は有名な銀座4丁目の交差点から300mほど離れた松屋と松坂屋の間のビルの7階にあり、大通りに面した立地の良い場所であった。
銀座は大人の街のイメージだったが、まさにその通りであり、若者の街の渋谷とは違って、街には落ち着いた雰囲気があった。歩いている人もどことなく気品がある感じがした。
銀座店のお客さんは銀座の街に合った渋谷よりやや年齢層高めの落ち着いた人が多かった。
しかし銀座店はオープン当初は暇だった。
渋谷店は雑誌に取り上げられてオープン直後から忙しかったが、銀座店はオープンして3ヶ月ほどはかなり暇で出勤してもマッサージしないで帰る日もあった。
マッサージがない日は、1ベット貸してもらい国家試験の勉強をしていた。
ちょうどその頃は、鍼灸3年生で国家試験を控えていた時期であった。店長もいい人で「暇な時は勉強していいよ。」と言ってくれた。
そんな銀座店のスタッフは皆仲が良く、飲み会が頻繁に行われていた。
私も学校がない日にたまに参加したが、終電過ぎまで飲んでそのままお店に泊まることもあった。
それから銀座店には辞めるまで5ヶ月ほど在籍したが、総じて楽しかった。
以前も書いたが、このマッサージ店全体的に若いスタッフが多く学校の部活みたいなノリがあったので、どこの店舗にヘルプに行っても楽しかった。
銀座店は最初は暇であったが、数年後、倒産する際に最後まで残ったのは銀座店だったらしい。
このマッサージ店はこの後、銀座に続き新宿にも新店舗を作り拡大していくが、結局10年経たないで倒産してしまう。
何が原因で、何がダメだったのか?
私の辞めた後の出来事なので私は全く分からない。
私がバイトしていた時は新店舗が次々にでき、雑誌の取材も月1はありお客さんも多かった。
あの頃のスタッフは今、どうしているのだろう。
自宅にスタッフを招いて美味しい料理を振る舞ってくれた大谷部長。
丁寧にマッサージを教えてくれた佐藤さん。
各店舗の個性的な店長達、私と仲の良かったスタッフ仲間達。
何人かは今も連絡してるが、ほとんどの人は連絡先も分からなくなっている。
このマッサージ店で教わった技術は、その後、私のベースとなり今も使っている手技もある。
特にいろいろなストレッチを教わったので、今も私は長いマッサージにはストレッチを必ず入れている。
お世話になった部長、先輩スタッフには感謝しています。
マッサージ編『完』
バイトのマッサージ渋谷2号店がオープンし私も配属になった。
オープンし2週間ほどは暇だったが、雑誌の取材が入ってからは激混みになった。
そこのマッサージ店は渋谷にあり、オシャレなマッサージ店だったためよく雑誌の取材をされていた。
何回かTVの取材もあった。
当時はネットがなかったので、東京の情報は「東京ウォーカー」などのタウン誌しかなかった。
そういうタウン誌のお店紹介ページによく載っていたのだ。
しかし、雑誌に載っても忙しいのは3週間ほどであり、それを過ぎるとパタっと客足が止まるのを経験した。
雑誌を見てくる人は常連にはならないのである。
そんな感じで渋谷2号店も1号店同様に、常連さんというより1回きりのお客さんが多かった。これは渋谷の街の特徴だろう。
そらから、渋谷2号店では半年ほど働いた。
私は渋谷は学校から近く、ずっと渋谷店が良かったのだが、半年くらいして銀座店が新しくできることになり私はまたも銀座店のオープニングスタッフ配属になり、渋谷2号店を去ることになった。
私が渋谷2号店を去った数ヶ月後、銀座店にヘルプで来た渋谷2号店のあるスタッフから
「高橋君がいた時は、マッサージに皆んなが率先して入って元気あったのに、今はジャンケンで負けた人が入るんだよ。なんだか雰囲気暗くて。高橋君はいつも元気だよね。なんで?」
と聞かれた。
まさか「天風哲学の実践者だからさ!」と答えても分からないし説明するのも面倒なので
「いつも心に太陽があるからだよ!」
と言ったら
「なにそれ?」
と笑われた。
私はバイトに行ったら率先してマッサージに入るようにしていた。
先に入ろうが後から入ろうがマッサージに入る人数はたいして変わらない。
それなら率先して入った方が気持ちがいい。
誰かが率先して仕事をすると次から他の人が率先して仕事をするようになり、職場の雰囲気が前向きになる。
中村天風氏はこう言う。
「好きな人のためだったら重い荷物を持って階段を登っても疲れないが、嫌いな人のためには紙一枚持っても疲れる。すべての心の持ちようなのだ。心に負担をかけなけらば疲れるなんてことはない。」
嫌だ、嫌だと思って仕事をしていると疲れる。
楽しんで仕事をしてれば疲れない。
仕事は1日のほとんどを時間を過ごす。
また、それは人生の長い期間を過ごす。
嫌だと思って疲れた人生を過ごすのか
楽しんで楽な人生を過ごすのか
全ては心の持ちようである
誰のせいでもない、全ては本人の心の持ちようなのである。
つづく。
渋谷は言わずと知れた若者の街だが、柔整(整骨院)、鍼灸の学校は渋谷にあった。
鍼灸3年、柔整3年の専門学校なのだが、1年Wスクールのため渋谷には5年通った。
ちなみに柔整、鍼灸は同じ学校法人が経営している為、校舎は同じだった。
柔整の学校が始まり、たまたま隣の席になったI君は私と同じ柔整、鍼灸のWスクールをしていた。しかも3年間。
I君に「授業の空き時間は何してるの?」と聞いたら
「家が近いから帰ってます。」と言う。
どこに住んでるのか聞いたら、なんと道玄坂であった。
柔整学校は9〜12時、鍼灸学校は18〜21時で空き時間が6時間もあった。
聞くと、I君は地方から出てきて道玄坂に住んでいた。親しくなってから遊びに行くと、道玄坂の1ルームマンションで4畳半ほどの部屋にユニットバスという極小ルームに住んでいた。
たぶんそのマンションは元シティーホテルで、そこを賃貸マンションにしたようなつくりであった。家賃は当時8万円くらいと言ってた。
しかし道玄坂は部屋も極小であったし、周りもいかがわしい店が多く、とても学生が住む雰囲気ではなかった。
そんなI君だが、私が「僕がバイトしているマッサージ店は学校の空き時間に雇ってくれるよ。とうせバイトするならマッサージがいいんじゃない?日曜出勤もあるけど、やりたかったら言って。」と言うと
「是非やりたい!」と言う。
私はバイト先にその事を話しI君も採用になった。
それからI君とは仲良くなり、私は夜、片道90分かけて春日部に帰るのが面倒な時、たまにその極小ルームに泊めてもらった。泊めてもらった夜は終電が終わった後に、I君と渋谷をぶらぶら散歩することもあった。
昼間はあんなに人が多く喧騒な街も夜中は嘘のように人もいなくなり静かになった。誰もいない渋谷を歩くのはなんだか気持ちが良かった。
さて、渋谷のマッサージ店は渋谷公園通りに1店舗があったが、もう1店舗を新規に東急ハンズ近くに作り、私はそこのオープニングスタッフとして配属になった。
渋谷2号店の店長は、すごく優しい男性店長で、また副店長にマッサージ研修をして頂いた佐藤さんが配属になった。私は知ってる人が来てくれて心強かった。
自由が丘店のお客さんは40〜50代落ち着いた人が多く常連さんがほとんどであったが、渋谷は若い新規のお客さんが多かった。
中には地方から東京見物に来て渋谷でマッサージを受けて行く人も多くいた。
また日曜出勤の後などは、同僚と渋谷のオシャレなお店で一杯飲んだりした。今思えばこの頃が一番楽しかった。
今もたまに渋谷に遊びに行きたいと思う。
あの頃とどう変わったのか散歩してみたいが、もう25年近く行ってない。
渋谷は当時から店の移り変わりが激しかったので、今はかなり変わってしまっただろう。
学校、バイトと渋谷には5年間も通ったので思い出の深い街である。
つづく。
自由が丘店には、とても人気のある男性スタッフSさんがいた。
系列店40名ほどいるスタッフの中でも人気No1。
2ヶ月先の予約枠がオープンになるとすぐに一杯になってしまう。
Sさんは年齢30代前半、吉田栄作に少し似た爽やかな感じの人だった。マッサージももちろん上手いと評判だった。
そんなイケメン爽やか青年なので、自由が丘のマダム達がメロメロになっていたのだろう。
私は一度Sさんに
「何か特別な技とかあるのですか?」
と聞いたことがあったが、爽やかに
「別に普通にマッサージしてるだけだよ。なんで人気なんだろうね。俺も分かんない。」
と言っていた。
店長にも
「Sさん、なんで人気なんですか?」
と聞いたら
「Sさん、すごく優しいよ。」
と言っていたが、私は内心(それだけ?他にも優しい人はいるのに。やっぱり見た目?)と思っていた。
そんなもてもてのSさんだったが、後に同僚の地味なスタッフと結婚した。
私はチョット意外であった。Sさんだったら、もっとキレイな女性はいくらでもいただろうに。分からないもんだな〜と思った。
そんなSさんだが、私が退職して8年後くらいに当時のスタッフが集まって飲み会をやった時に来ていた。
Sさんは
「あれから自分でマッサージ店をやったけど潰れて、その後、雇われ店長も2つほどやったけど潰れた。それから友人の店で働いていたけど、そこも潰れた。俺、何件潰したなかな〜」
と話していた。
あれほど人気のSさんでも続かなかったのか?
マッサージ店の経営って難しんだな、と思った。
ちなみに私が当時バイトしていたこのマッサージ店も数年後に倒産した。
私がバイトしていたこの頃が、1番勢いがあったのではないか?
私の配属先は渋谷に2号店ができるらしく、そこの新規オープンスタッフとして配属されることになった。
つづく。