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開業 | 春日部市で整骨院なら高橋はりきゅう整骨院|鍼灸・腰痛

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Blog記事一覧 > 院長ヒストリー | 春日部市高橋はりきゅう整骨院|鍼灸・腰痛 - パート 2の記事一覧

開業

2023.10.14 | Category: 院長ヒストリー

2000年5月1日、28歳の時、春日部中央にて鍼灸整骨院を開業した。

実は働いていた接骨院を退職する時は、その後どうするかは全く考えていなかった。
それまで数年間、鍼灸院で働いてから大学、専門学校のWスクール、日曜もなくバイト、接骨院でも日曜出勤もあり忙しい毎日を過ごしていたので、少し休みたかった。のんびりしたかった。

しかし、実際何もしないでのんびりしていると2週間で飽きてしまった。
 さて、どうしよう?
どこかで働くことも考えたが、結局開業することにした。

それから不動産屋さんをいくつか回り良さそうな物件を見た。3カ所ほど候補があったが、結局春日部中央の物件を借りることにした。

物件が決まると後は早くて、2ヶ月位で準備を整え開業となった。
整骨院は最初は妹が受付をやり、私と2人で始めた。
妹は、それまで大学病院の教授の秘書をしていたが、私が「整骨院を開業する」と言うと「受付をやる」と言い出し大学病院を辞めてしまった。
しかし受付がつまらなかったらしく2ヶ月で「辞める」と言って、元の職場に戻ってしまった。妹はその後、医者と結婚したので整骨院を辞めて良かったのだろう。

そんな妹もいたお陰で、整骨院には大学病院から開業祝いのお花が届いた。
整骨院に来た患者さんの中には
「ここの先生は〇〇の大学病院出身で上手いらしいよ。」
と噂をする人もいたが事実は前述の通りである。

また、私の両親が春日部で働いていたので、開業してから両親の職場の人が結構来てくれた。
開業当初は両親の知り合いや、親戚、私の友達などからお花がたくさん送られて、部屋が花でいっぱいになり「ここは花屋?」という感じであった。

開業して3ヶ月ほどは暇であったが、暇な時間はのんびり本を読んで過ごしていた。
 3ヶ月過ぎた頃より忙しくなり、それ以降、今までずっと忙しい。
 
途中、コロナで暇な時もあったが基本忙しく、ありがたい限りである。

私の時代は開業が一つの目標であった。
28歳で開業し患者さんも徐々に来てくれて、春日部に根付くことができた。
2023年、現在、開業してから23年経つ。
あと何年できるか分からないが、もう少し頑張ろうと思う。
これからもよろしくお願いします。

鍼灸接骨院(13)空き巣騒動

2023.05.04 | Category: 院長ヒストリー

院長高橋のヒストリーをブログで書いております。
今回は鍼灸接骨院修行時代の13回目。

分院長をしていた時、接骨院に「空き巣」が入った話です。

さて、どんな体験だったのか。。

私が分院長になって半年ほど経った頃だったと思う。

接骨院の昼休みは長く、午前診療が終わった後はスタッフ皆でランチに行くのが日課であった。

ランチに行っている間は接骨院は留守であり、その当時は入り口の鍵は閉めてなかった。
今考えると不用心であるが、お金は鍵付きの棚に入れてあったし、接骨院は盗むものもないと思って油断していた。

その日もいつもと同じように午前の診療が終わってスタッフとランチに出た。

ランチをした後、私は本屋に行きたかったのでスタッフと別れてそのまま本屋に向かった。

本屋に着いてぶらぶらしていると、スタッフの1人から電話がかかったきた。

スタッフ「高橋先生、大変です!空き巣が入りました!」

私「え!またまた〜。そんなこと言って。だまされないよ〜。」

スタッフ「本当なんです!本当に!」

私「またまた〜。冗談言って〜。」

スタッフ「本当なんですって!本当に空き巣が入ったんです!すぐ来てください!」

私「マシで?本当に?すぐ帰るよ!」

と、私は最初は冗談だと思ったのが、スタッフの真剣な訴えにただ事ではないと分かり、すぐに接骨院に戻った。

接骨院に戻ると、鍵付きの棚が壊されてお金が無くなっていた。
しかし幸いにそれ以外は何も被害は無かった。

それから警察に電話して、少しして警官が2名来た。

警官は1時間ほど実況見分をして、スタッフにいろいろ聞いていた。

私も「思い当たる人いますか?」と聞かれたが、その時は気が動転していたのか、
「特にいません。」と答えた。

しかし、あとで冷静になって思い出してみると、空き巣がある1週間ほど前に怪しい人がいたのを思い出した。

その人は11時半くらいに来て、施術を受けてかえったのだが、妙に目付きが鋭くあたりを観察しているようであり、なんとなく雰囲気が普通の人では無かった。

後日、警察にその事を言ったが
「それだけではどうすることもできない。」
と言われてしまった。
「犯人が捕まったら連絡します。」と言われたが、その後連絡はなかった。

この事があって以来、昼休みは鍵を閉めるようになった。
しかし、今思えば私を含めスタッフが犯人と鉢合わせにならなくて良かった。
 若い活気盛んなスタッフが多かったから、鉢合わせになったらかえってお互い危なかったと思う。
接骨院の先生は柔道をやっている。
学校の時の友人はは引ったくりにたまたま遭遇し、犯人を半殺しにしてしまったと言っていた。
 確かにコンクリに柔道技で頭から落としたら、かなり危ない。大外刈りで後頭部からコンクリ直撃したら、、、。

鍼灸接骨院(12)名物お婆ちゃん

2023.04.10 | Category: 院長ヒストリー

私が分院長をしていた頃、毎日接骨院に来る名物おばあちゃんがいた。
私が分院長で配置されるずっと前からその接骨院に来ている。

いつも右手首に包帯をしている。
年齢は、もう80才は過ぎていた。
お年寄りには珍しく夜更かし朝寝坊の生活で、いつも午前の診療の終わりに来ていた。
毎日来て、愛嬌ある性格でスタッフから
「Mちゃん、Mちゃん」
と可愛がられていた。
そんなMちゃんと、ある日お昼を他の先生達と一緒に食べに行った。

いろいろ身の上話を聞いていると、50才の時、旦那さんに先立たれ、それからずっと一人暮らしをしているそうだ。
接骨院は、それから2年後くらいから来ていると言う。

「へーそうなんですか。」
と聞いていたが、
ん?

「初めて接骨院に来たのは何でですか?」
と聞くと、
「手首が痛くて来たんだよ。」と。

「え!まさか、その時から手首が痛いのですか?」
と聞くと、なんとそうらしい。

病院でもいろいろ検査し、軟骨を損傷していると診断されたそうだ。
病院では治療がないと言われたらしい。

「じゃあ、30年間ずっと手首に包帯してるんですか?」
と聞いたら、そうだと言う。

確かに手首を治療する時に包帯を取ると、手首だけ日焼けしていない。真っ白である。
Mちゃんの手首の病名は、手首の外側、小指側の軟骨を痛める
「三角線維軟骨損傷」(TFCC) であった。
これは、非常に治りが悪いので有名である。
外傷や老化でも起こる時がある。
もともと血流が良くなく、回復しにくい箇所である。

当時の私は、痛い箇所に電気(低周波)をしたり、マッサージしたり、鍼することしかできなかった。

今だったら手首に関連する関節の調整するだろう。
手首が治らない人に共通するのは、肩甲骨や首の前の筋肉が硬くなっている。
そして、肩が内に巻いたようになっている。

今思うと、Mちゃんも肩が内に巻いたようになっていた。
ただ一つ気になるのは、旦那さんが亡くなった後に接骨院に来て、それからずっと接骨院に来ていた事だ。

スタッフから「Mちゃん、Mちゃん」と可愛がられ、毎日接骨院に来て、よくスタッフと昼食を食べに行っていた。

そんなMちゃんの手首は、今思えば、治らないのではなく、治りたくない手首だったのかもしれない。
手首がなおってしまったら接骨院にくる必要がなくなってしまうから。

そんなMちゃんは、私の思い出に残る患者さんの1人である。

最近のお婆ちゃんは皆、若くオシャレでMちゃんのようなお婆ちゃんらしいお婆ちゃんは少なくなった。

鍼灸接骨院⑩分院長

2023.03.12 | Category: 未分類,院長ヒストリー

接骨院で働いて3年ほど経った頃、ある分院の分院長が辞めることになり私がそこの分院長として配属になった。

それまでいた分院は患者さんが1日60〜80人ほどでスタッフが5人ほどたったが、配属になった分院は1日30人ほどの患者さんをスタッフ2人でやっていた。

配属されて行ってみると、今までの大人数を多数のスタッフで施術するのと違い、患者さんとの距離が近くアットホームな接骨院であった。

少し働き出すと、患者さん1人1人にかけられる時間が長く、ゆっくり施術ができて「こういう院もいいな〜。」と思った。

思えば、最初に弟子入りしたG鍼灸院は1日200人もの患者さんが来て、息もつかないほどの忙しさであった。患者さんとゆっくり話してる暇なんて無かった。
また、前の接骨院もかなり忙しかったし、大人数がいるために個人的な話はできない雰囲気だった。
それに比べ新しい分院は時間的に余裕があり、ゆっくり施術できた。

しかし、のんびりできていいなーと思っていたら、だんだん患者さんが増えてしまい2人では対応できなくなり、その後3人体制となった。その頃は1日50人を超えていた。

それから分院長は1年間やらせて頂いたが、開業前に分院長を経験して大変勉強になった。

この後、自分で開業するのだが分院長を経験させて頂いたおかげで開業してからも全く困らなかった。

分院長として治療施術だけでなく事務仕事も勉強できたのが大きいと思う。

開業する前に分院長を経験するのは、開業後に成功するために必要かもしれない。
 自分で1つの整骨院を運営する練習になる。

野口整体③活元体操

2023.02.19 | Category: 院長ヒストリー

二子玉川にある整体協会には学生の時を含め4回程行った。
現在の整体協会は操法(施術)は行っていない。
私は主に活元体操の会に行っていた。

活元体操とは、床に座り音楽を聴きながら自分の身体を感じて動かしたい方向に体を動かす体操である。
なのでラジオ体操のように決まった動きはしない。
人それぞれ違う動きなのだ。
初めて見ると皆んながクネクネ変な動きをしていてチョット不気味に見える。
しかし、やってみると心地よい。
頭を空っぽにして何も考えないで自分の体を感じ、動かした方向に動かす。
 それが自然と体を整える動きになるのだ。

終わった後は心も身体も解放された感じがした。

活元体操は身体というより、むしろ精神を解放する効果が高いと思う。自律神経を整えリラックスできる。

筋肉を鍛えたり関節の可動域を広げる体操とは違う。

そんな活元体操は二子玉川の整体協会本部だけではなく、あちこちでやっていると思う。ご興味ある人は調べてください。
個人的には好きな体操ですが、初めは抵抗あるかもしれません。

私は普段は瞑想をする前に活元体操を少しやったりする。
瞑想をする前に活元体操をやると体の緊張がほぐれリラックスできより深い瞑想に入れる。

野口整体については今でも影響を受けている文化人が多くいるが、野口晴哉先生がご存命の時は治療家、教育者、文学者、音楽家など幅広い分野で野口整体のは信奉者がいたようだ。
 
私自身は後に野口整体の技術を伝える「井本整体」に縁あって通うことになる。「井本整体」の話はまた後で書きます。整体狂時代が後に始まります。

つづく。

野口整体② 心理指導

2023.02.10 | Category: 院長ヒストリー

鍼灸接骨院編の途中ですが、なりゆきで野口整体について書いてます。

私が野口整体を知ったのは鍼灸修行時代に師に勧められたからであり、二子玉川にある整体協会には何回か行き活元体操などした。

野口整体の本は「全生社」という整体協会の自主出版であり、当時は二子玉川の整体協会に直接行くか電話して注文しないと買えなかった。
野口先生の著者は20冊以上あると思う。
私が好きなのは「治療の書」であるが、実は奥様の昭子さんの著者「朴葉の下駄」が当時の様子や野口整体の心理指導について実体験を基に描かれていて私は好きだ。
野口先生の「体癖論」も興味ある人は読むべきだ。
「教育」について書かれた本も面白い。
しかし、心理指導の本は難しい。読んでいてこんがらがってきて最後は訳わからなくなる。上級者向けだと思う。

奥様の昭子さんの著者「朴葉の下駄」では、野口先生との出会いや、昭子さんの父、近衛文麿首相が戦争犯罪人として東京裁判の日を前に自決する様子が書かれている。
 近衛文麿元首相が自決する記述は、野口整体の心理指導を代表する事柄だと思うので少し書きます。
私の記憶のまま書くので詳しく知りたい方は本を読んでください。

第二次世界大戦終了後、日本は降伏しGHQによる戦後処理が始まる。
近衛文麿元首相は戦争犯罪人が濃厚となり、いわゆる東京裁判を受ける事になる。おそらく判決は死刑。
 裁判を前に近衛文麿元首相は自決を決意する。
そのことに気づいた昭子さんはひどく動揺する。
(ちなみにこの時2人は結婚していたのだが、昭子さんは野口先生のことを夫でありながら「先生」と呼んでいた。昭子さんにとっては夫であり先生であったのだと思う。)

昭子さんはひどく動揺し、いてもたってもいられなくなりどうしても先生に会いたくなる。
そして先生に会い父の自決の意志を伝えると
「お父様の自決を止められるのはあなたしかいない。あなたが止めさせなさい。裁判で自分の所信を言うべきだ。」
と言われる。
しかし、昭子さんは野口先生の言葉を受け入れることができず
「父が決意して決めたことをどうして私が止められようか。父を止めることはできない。父の意志を尊重することこそが正しいことなのだ。」
と悟るようになる。

また同時に「先生はなんでそんなことを言うのか?私に父の意志を無視しろと言うのか。」と腹立たしくもなる。

翌朝、裁判の日、昭子さんが予期していた通り近衛文麿元首相は毒薬を飲み自決していた。
昭子さんは
「これで良かったんだ。父の意志を尊重した事が正しかったんだ。」と自らに言い聞かせ心を落ち着かせた。
「いつもは先生の言うことは正しいが、父の死については私の方が正しかったんだ。」
と思い、その後数年経ってもその考えは変わることはなかった。

それから数十年経ち、野口先生か亡くなる。
亡くなった後、ふと昭子さんは父の死について考えた。
「今思ってもやはりあの時だけ私が正しかったんだ。」

でも、なんであの時、先生はあんなことを言ったんだろう?
考えてみると、先生が本気であのような事を言うとは思えない。

そういえば、あの時、父の死の決意に気づいて自分の心はどうしようもなく動揺していた。
いてもたってもいられなくなり先生と会った。
先生は
「あなたが止めなさい、あなたしか止められない。」
とおっしゃった。
 私は先生の言葉に反発し、父の意志を尊重する事ことが正しいことだと悟るこのができて、動揺していた心がスーッと落ち着くことができた。

ああそうか、そうだったのか。

あの時、先生はわざと私の反発を誘導したのだ。
結果、私の心は平静を保てたのだ。
 先生の言葉によって動揺していた心は落ち着き父の意志を受け入れることができたんだ。
ああ、そうだったんだ。
 先生が亡くなって数年経ち先生の意図していた真意がやっと分かった。
先生を思うと、先生は雲の向こうで「遅い、遅い」と笑っているようだった。 概略
『朴葉の下駄』野口昭子 ちくま文庫
 

野口整体の心理指導は、あたかも本人が自分で決意したと思うように導かなければならないという。
 強制してやらせるのは最も良くないやり方であり、本人が自ら進んで行動したと思うように導くことこそ、理想の心理指導としている。

それは強制された者は意欲を失い、自ら進んで行った者のみ自活する意欲が出てくる原則があるからだと思う。

教育でも健康でも仕事でも全てに共通する真理だろう。

つづく。

野口整体① 野口晴哉

2023.02.10 | Category: 院長ヒストリー

鍼灸接骨院編の途中ですが鍼灸学生時代から時々、野口整体の体操会に行っていたので、野口整体について書いていきます。

野口整体は私の鍼灸の師に
「整体はだいたいくだらないものだが、野口整体だけは本物だぞ。」と言われていたので、本を読んで勉強していた。

野口整体はあまりにも有名で、この業界で野口整体を知らない人はもぐりだ!と思うが、野口整体についてはどう説明していいか困ってしまう。
簡単に言うと「人の理想的な生き方を追求した学問」である。
行動学であり、心理学、健康法、教育学など
多岐に渡る。
「整体」というと単なるマッサージのような施術をイメージするが、野口整体の整体とは「心と体が整った状態」のことをいう。
 施術は整体を導く1手段にしかない。しかも野口先生は晩年、施術(整体操法)を禁止した。

今回は整体協会の野口晴哉氏の紹介文を載せますので、とりあえず野口晴哉という人がどういう人だったかを理解してみて下さい。

野口晴哉氏について(整体協会より引用)

明治四十四年九月、九人兄弟の次男として東京・上野に生まれる。幼い頃に患ったジフテリアの影響から言葉を話すのに不自由し、幼少期を過ごした漢方医の叔父の許では、さまざまな読書に明け暮れたという。大正十二年、十二歳の時に関東大震災を体験し、焼け野原で苦しむ人たちが悼まれず、本能的に手をかざしたところ多くの人たちが快復、これをきっかけに治療家としての道を志す。
 古今東西の健康法や療術などを独自に探求し、十五歳で入谷に道場を開き、愉気と活元運動を主体とした療術団体『自然健康保持会』を設立。また、十七歳で「健康に生くることが自然順応の姿である」などとする『全生訓』を発表し、以後、一貫して「活き活きと生を全うする」ことを指針に据えた活動に入る。
 日本治療師会の評議員を務め、大日本連合治療師会の創設にも寄与。そして治療理念の確立、諸療術の体系化を図る「整体操法」をまとめ上げ、昭和二十二年には整体操法の指導者育成機関として『整体操法協会』を設立。昭和二十年代後半には身体を通した人間の個性研究とも言える「体癖論」の基礎を完成させた。
 この頃から、病を治すことよりも人間本来の力を引き出して健康に導く自らの活動を「体育」と位置づけ、「治療」を捨てることを決意。何かに頼ることなく自らの足で立つことを指導理念に掲げ、昭和三十一年、そうした健康観に基づく体育団体『社団法人整体協会』を文部科学省(旧文部省)の認可を受けて設立。個人指導のほか活元運動の普及、愉気法などさまざまな整体法の講習会を全国各地で開き、心と体を一として考える独自の人間研究においても体癖をはじめ潜在意識の研究、子育て、教育などの分野にも踏み込み、多くの著作を残した。
 カザルスを唯一の師と仰ぐほど音楽を愛し、妻昭子(一九一六~二〇〇四)との間には四人の子息をもうけ、昭和五十一年六月、東京・狛江の自宅にて家族に見守られ六十四歳で永眠。

以上

改めて読むと15歳で道場を開き療術団体を作るとは驚きですね。
 ちなみに野口先生の奥様の昭子さんは、元首相の近衛文麿の御長女です。
 近衛家といえば、歴史に詳しい人はご存知でしょうが名家中の名家。公家の中で最も天皇家に近い家柄と言われてます。
 なぜそんな名家のお嬢さんが、医者でもない一治療家と結婚したのか?
 そのあたりも次回書きます。

つづく。

鍼灸接骨院編⑨太極療法

2023.02.08 | Category: 院長ヒストリー

私が鍼灸学校に通っていた当時は鍼灸の臨床の本は限られていた。
 私が学生の時、特に好んで読んだのが鍼灸師の代田文誌さんの著書だった。

代田文誌さんは鍼灸の名人澤田健氏に弟子入りする。
澤田健先生の治療を間近で見て、それを本にまとめていりる。
弟子時代の「鍼灸真髄」も澤田健先生の鍼灸治療がいきいきと書かれていて面白い。
また独立した後の著者では澤田健先生の太極療法をベースに難病を鍼と灸のみで治していく経過がかかれている。治療法のみならず治療家としての心構え、患者さんとの関わり方など臨場感持って書かれていて私は読んでいてわくわくしていた。
 後に代田文誌さんは皮電計という皮膚の電気抵抗を測る機械を使っての鍼灸も行っている。

私は越谷の鍼灸接骨院で働いている時、なんと代田文誌さんの息子さん(文彦さん)と学生の時に友達だったというおじさんが患者さんで通っていた。
 代田家に遊びに行って、ものもらいのお灸を文誌さんにしてもらったと言っていた。
 ものもらいのお灸は、太極療法では有名で手の人差し指の関節にする。澤田流ニ間だ。
 お灸をしてもらったらすぐに治ったそうだ。それ以外にも時々お灸をしてもらったそうだ。

私も一度、代田文誌さんの息子さんの文彦さんの開演を聴きに行ったことがある。
 文彦さんの話によれば
「親父に胃兪にお灸しろと言われて、患者の胃兪にお灸をしたら、そこは胃兪じゃないと言われたそうだ。ツボは合ってるはずなので、ここは胃兪だろう?と言うとは文誌さんは胃兪とは全然違うところに印を付けたそうだ。しかも左右がかなり違っていて、これが胃兪?と聞くと、この患者の胃兪はここなんだ。」と言われたそうだ。

この話を聞いて、なるほど私は文誌さんの本を学生の時にほぼ全て読破したが、ツボは教科書通りでなく反応のある箇所なんだ知り勉強になった。

しかし、2023年の現在、太極療法はあまり流行っていない。どちらかというと澤田流太極療法は点灸(もぐさを直接皮膚で燃やすやり方)が主だからかもしれない。

これは私の推測だが、今の鍼灸の流派で長野式鍼灸がある。長野潔先生は著者の中で太極療法を勉強していたと述べている。
 私も長野式鍼灸を勉強したが太極療法と使っているツボが非常に似ている。
長野式鍼灸は処置法を分かりやすくまとめ初心者でも処置法を覚えれば使えるようになっているが、太極療法の影響も多分に受けていると思われる。

以下、ネットから転用。説明です。

代田文彦
信州大学医学部を卒業後、東京大学医学部内科学物理療法学教室に入局。 1969年より財団法人日産厚生会玉川病院に勤務し、漢方薬と鍼灸による東洋医学に基づいて内科医と鍼灸師が共同で治療にあたるチームをつくり上げた。 日本鍼灸治療学会理事、日本東洋医学会会長などを歴任。

太極療法
太極療法(たいきょくりょうほう)とは、澤田健が提唱した治療の概念である。澤田流、澤田流太極療法とも呼ばれる。
治療内容はどんな病気も全体の調子を整えることで回復が早まることから局所の病気だけにとらわれることなく、全体調整を目的とした治療概念である。主な基本穴は、百会穴、身柱穴、肝兪穴、脾兪穴、腎兪穴、次髎穴、澤田流京門(志室穴)、中脘穴、気海穴、曲池穴、左陽池、足三里穴、澤田流太谿(照海穴)、風池穴、天枢穴などである。

つづく。

鍼灸接骨院編⑧肩の脱臼

2023.02.07 | Category: 院長ヒストリー

今回は肩の脱臼を治した話ではなく、私が肩の脱臼をした話です。

柔整(接骨院)の学校では年に1会柔道大会があった。

確か2年生の時の柔道大会だった。
勝ち抜き戦で1人に勝って次の相手と戦った際、タックルのように私が足を取りに行った時、腕を前方に強くひっぱられ右肩を脱臼してしまった。

脱臼したのは初めてだったが、かなり痛かった。
脱臼しそのまま抑え込まれ試合は負けたのだが、最後の礼の時に右手がふとももに付かないので、これは普通じゃない事が分かった。

柔整学校は骨折、脱臼の学校なので、スペシャリストがたくさんいる。

たくさんの人が集まってきてビデオも撮られた。
先生に「どの治し方がいい?」と聞かれたが、
私は「痛くないのでお願いします。」と答えた。

先生は
「せっかくだからあまりやらないやり方やるか?」
と言われ
(せっかくって?なんでもいいから早く治して!)と思い
「はい、お願いします。」と答えた。

ちなみに肩の脱臼の1番簡単な整復法は「ゼロポジション法」だろう。
ゼロポジション法は、脱臼している腕をバンザイのように上げ少し牽引し腕を内旋しながら下ろしていく。
これで脱臼している骨が入るのである。安全簡単なやり方である。
後に肩の再脱臼した際は自分でゼロポジション法をやり1人で治した。

しかし、この時行ったやり方は「コッヘル法」だった。肘を曲げたまま脇から離し腕を内旋しながら肘を反対の肩に向かって上げていくという複雑なやり方である。

「コッヘル法」をしてもらうとガクンっ!という衝撃と共にで骨が元の場所に戻った。

骨が元に戻ると油汗が出るような痛みは無くなったが、まだ痛かった。

肩の脱臼は骨が外れると共に関節包が破れる為、1ヶ月程は三角巾などをして使わない方が良いのだ。

それから2週間は大人しくしていたが暇でつまらなくなり、2週間後からは接骨院の仕事をした。
腕を上に上げない限りは痛みはなかったのだ。
また同僚に鍼をやってもらい鍼を受けると痛みがだいぶ楽になった。

それから1ヶ月も経つと普通に使えるようになったが、完全に回復するのは3ヶ月ほどかかった。

しなしながら右肩の違和感、存在感はこれ以降ずっとある。痛くないし何も不自由もないのだが、他の部分と違って少し冷える感じがする。

東洋医学では大きな怪我をすると「瘀血」(おけつ)という血行不良が起こると言うが、まさにそれだろう。
寒い日などは疼く感じがするのだ。

つづく。

鍼灸接骨院編⑦初めての整復、不発

2023.02.05 | Category: 院長ヒストリー

接骨院でバイトして半年くらい経った頃だったか小児の肘の脱臼を任された。

接骨院に
「子供の肘が抜けてしまったのでこれから行きます。」
と電話がかかってきた。

分院長に
「高橋先生やってみる?」
と言われ
「はい、やってみたいです。」
と答え任されたのである。

小児の肘の脱臼は「肘内障」と呼ばれ比較的簡単な整復である。
小児は骨の突起の引っかかりがまだ発達してないので抜けやすいのである。
抜けやすい子は何回も抜ける。
チョット引っ張っただけで抜ける。
うちの子も小さい時はよく抜けていた。

そんな肘内障だが、私は初めての整復でドキドキしていた。
 患者さんが来るのがすごく長く感じて、待っているとだんだんお腹が痛くなってきた。

5分ほどお腹が痛いのを我慢していたのだが、我慢できなくなり分院長に
「チョットお腹か痛くなってトイレ行ってきます。」
と言ってトイレに行った。

トイレに入って2〜3分した頃、車が来る音がして
子供の鳴き声が聞こえて来た。

(あっ、ヤバい、早く行かないと。)
と思っていると、
ぎゃーと泣いていた子供の声が静かになった。

あれ?どうしたのだろう?

とトイレから戻ると

「高橋先生、いないんだもん。整復しちゃったよー。」
と分院長。

「すいません、ありがとうござい。」

と、初めての整復は不発に終わった(笑)

そらから肘内障はよく来ていていたので、少しして初めての整復は無事完了した。

しかし、最近の整骨院では肘内障も見ることが少なくなった。

手を引いて抜けたことが明らかな場合の肘内障だったら接骨院、整骨院の方が早いかもしれない。

ただ肘を強打したり、原因が分からない小児の肘の外傷の場合は整形外科で診たもらった方がいい。
 骨折があるかもしれないし、小児の肘の骨折は成長障害が起こりやすいのだ。

つづく。