Blog記事一覧 > 院長ヒストリー | 春日部市高橋はりきゅう整骨院|鍼灸・腰痛 - パート 6の記事一覧
「気」の勉強会では瞑想が約2時間ほどあった。
「瞑想」って何をするの?
最初は分からなかったがMさんにやり方を教えてもらった。
まず、背筋を伸ばして座って肩の力を抜く。
呼吸は楽に、頭を空っぽにして何か浮かんできてもとらわれない。気にしない。
自分の心を眺めるようにだんだん深く内面に入っていく。
頭で考えるのではなくて、内面を感じるようにする。
起きているのだけど頭では考えない、意識ははっきりしたまま寝ているような感覚。
「無念無相」という状態である。
そんな瞑想だったが、土曜の仕事で疲れていた私は完全に寝てしまった時も多々あった。
しかし、瞑想を何度もしていると感覚が研ぎ澄まされ「気」を感じられるようになった。
それが分かったのは、暗い部屋で瞑想をしていて、もちろん目はつぶっているのだが「気」が変わる瞬間を感じることが何度もあったのだ。
別の言い方をすると、部屋の空気が変わる瞬間を感じたのだ。
そういう時は、だいたい終わった後にMさんが
「今日は30分くらいしてから気が変わったね。」と言っていた。
瞑想をしていた時、確かに部屋の空気が清々しく軽やかになるのを感じることがあった。
ここでいう「気」というのは特別に思えるかもしれないが、簡単に言うと「雰囲気」である。
どっかの店に入ったりすると、なんとなく「ここは居心地いいな」とか逆に「なんかここは嫌だな。早く出たい。」とか感じるのがそれである。
人も同じで「何となく好きだな」とか「何かあの人とは合わない。」とかもそうである。
なので人は無意識に「気」を感じて自分のあった場所にいて、自分とあった人といるのである。
三輪明宏さんが、ある人の相談で
「どうして自分の周りには下らない、ろくでもない人はがりいるのだろう。私は運が悪いのでしょうか?」
と聞かれ、それに対して
「それはあんたがろくでもない人間だからだよ。ろくでもない人間にはろくでもない人間が集まってくるんだよ。」
と言ったそうだ。きつい言い方だが、確かにそうだと思う。類は友を呼ぶのだ。
学生時代を思い出すと分かるが、似たもの同士が集まってグループを作っている。
自分と同じ「気」を持った集団が居心地が良いのだ。
そんな「気」だが、今でも私は「気」を大切にしている。
初めて行った場所、初めて会う人などでは、「気」を感じることを無意識にしている。
つづく。
G鍼灸院で働きだした頃から月一の「気」の勉強会にも参加した。
勉強会は土曜の夜7〜12頃に行われていた。
参加者は8人くらいだった。G先生に声をかけられた患者さんが多く、「気」に興味ある人達であった。
参加費は無料。木曜の体操会も無料だった。
そんな「気」の勉強会に参加していたが、G鍼灸院の土曜診療は大変忙しい上に9〜16時までぶっ通し、15分ほどの食事休憩があるのみだったので、私は土曜の夜の勉強会は楽しみであったが疲労困憊であった。
勉強会の場所はG鍼灸院、講師は基本的にはMさんであった。G先生もたまに来たりした。
勉強会の内容は、まず参加者約8人ほどが順番に1ヶ月間の気がついた事などを発表する。
それについてMさんが意見やアドバイスを述べる。
次にMさんが、その月のテーマについての話をする。その時のテーマとは中村天風だったり、ベストセラーの本だったり、新聞の話、仏教、キリスト教の話だったりした。
そのテーマについてMさんを中心に1時間ほどそれぞれの意見を述べ話し合った。
それが終わると、最後に瞑想が2時間ほどあった。
前述したとおり私は土曜の疲れきった状態で参加していた為、瞑想は眠くて眠くて仕方なかった。というか半分寝ていた。
(この瞑想について書くと長くなるので次回書きます。)
しかし、今思えば20歳そこそこの若い時にMさんにいろいろな人生論を教わった事は以降の人生で大きかったと思う。
以降の人生の価値観がしっかりできた気がする。Mさんに今でもとても感謝している。
ちなみにMさんはG鍼灸院のことは全てボランティアでやっていたが、本職は某有名企業の人事部長をされていた。
私は冗談で「鍼灸師やめたらMさんの会社で雇ってもらえますか?」と聞いたことがあった。
Mさんは「それを言われるのが一番困るんだよな〜」と笑っていた。たぶんいろんな人から言われるのだろうなーと思った。
G先生には「畏敬の念」があり話す時は緊張してしまうが、Mさんは良い先輩的な存在で気軽に何でも相談できた。
ちなみにMさんサラリーマンを退職した後、自宅で気功整体院を開いた。数年前にお会いしたら3ヶ月先まで予約が一杯と言っていた。確かにMさんならそうだろうと思った。
G鍼灸院の当時、私は絶対Mさんは将来、治療院をやるだろうと思っていた。
面白いことにG鍼灸院の患者さんであるMさんだが、G鍼灸院にはファンもたくさんいたし、Mさん自身そういう才能ある方だと思っていた。
つづく。
患者としてG鍼灸院に通っている時、鍼灸院で木曜に気功体操会をやっていた。私も大学生になって時間がある時、治療を受けるついでにその体操会にも参加するようになった。
鍼灸院の一室での体操会であり、夕方4〜7時で1時間✖️3回ほどやっていた。
4〜6時の体操会の講師はG先生ではなく、G先生に見染められた患者さんであった。
特に6時の担当のMさんはG先生と仲が良く兄弟のようでもあった。
そんなMさんの6時の体操会では最後に15分ほどの瞑想が行われていた。
私が初めてMさんの体操会に参加した時も「瞑想」があった。
私は「瞑想って何するの?」と思いながらも、目をつぶってそれらしく座っていた。
座っていると、何か白い円のようなものが見えた気がした。とくに気にもせずに瞑想を終えると、Mさんが
「白い円が見えたよね?見えなかったと言ったら嘘になるよ〜。」
と自信満々に言われた。私は驚きながらも
「確かに見えました。でもアレは何ですか?」
と言うと「今は知らなくていい。」と言われた。
それがMさんとの忘れられない最初の出会いであった。
ちなみにMさんとG先生の出会いも強烈である。
これは体操会メンバーから聞いた話だが、
G鍼灸院にMさんのお母さんが治療に来ていたが、ある時足首を強く捻挫して歩けなくなってしまった。
G先生はMさんの自宅に往診に行って鍼治療をしたそうだ。
その時、Mさんも傍にいたそうだが、G先生は初対面のMさんに
「突然こんなことを言って信じてもらえないかもしれませんが、あなたと私は過去世においてインドで一緒に修行した友人です。今まではお会いしてませんでたが、これからはよく会うことになると思います。」
と言ったそうだ。
そのことを後にMさんに聞いたことがあった。
「あの話は本当なんですか?」と聞くと、
「本当だよ。突然そんな事を言われてびっくりしたよ。あーそうなんですか?しか言えなかったよ。」と言っていた。
しかし、その後、本当にG先生とMさんは親密になっていく。
また、G鍼灸院では毎週木曜の気功体操会とは別に毎月1回土曜の19〜24時くらいで「気の勉強会」をやっていた。
私も働きだした頃から参加していた。
「気の勉強会」の話は次回書きます。
つづく。
今回はG先生について書きます。
G先生は私のどこに行っても治らない腰痛を治してくれた恩人であり、また私の鍼の師でもあります。
私の鍼の生涯の目標の人です。
そんなG先生は、分かりやすく言えば「スピリチュアル鍼灸師」でした。先生は「俺は違う!」と言うかもしれませんが、私のような凡人から見たらそう見えました。
また、すごく深い目をしていて、こちらを全て見透かしているような厳しくも慈愛に満ちた深い目も持った先生でした。
先生は、スピリチュアルな才能は「一度死にかけた後からそうなった。」と言ってました。
私もそういうスピリチュアルな世界があることを中学生の時に体験していたので、そういう世界には抵抗はなかったですが、G鍼灸院の時はそういう体験がとても多かったです。
私がG鍼灸院で体験したスピリチュアルの一例ですが、まず私がG鍼灸院に初めて来た時は問診も検査もなしでいきなり「腸が悪い」と言われ鍼治療でした。普通ありえません。
また、ある患者さんには精密結果で分かった悪い箇所を言い当てたり、また不妊症の患者さんの妊娠をたった2週目で分かったり、また本人に知らされてないガンを家族から聞く前に既に鍼治療していたり、これらはまだまだ序の口でもっといろいろありましたが、徐々に書いていきます。
そんなG先生が鍼灸の道に入ったのは早く、小学校5年生頃と言ってました。
お父様が子供の頃、病気でお亡くなりになり長男の先生が叔父さんの鍼灸院で小5から働いそうです。
稀に子供の頃から鍼灸、整体などの英才教育を受けて、天才的な治療家になる人がいるのですが、先生もその1人なのかもしれません。
なので私がG先生のところで働きだした時は20歳だったのですが、
「高橋、お前は始めるのが遅かったから頑張らないとダメだぞ!」と言われました。
(え!20歳で遅いの?)と思いましたが、先生の小5に比べればかなり遅かったと言えます。
G鍼灸院の修行時代が私の人生で一番熱かった時、いろいろな体験をした時だったと思います。
つづく。
G先生に弟子入りしてから大学はほとんど行かずに鍼灸院でバイトをしていた。
実際、鍼灸院で働いてみるとメチャクチャ忙しかった。
なんせ1日200人近く患者さんが来るのである。30台ほどのベットは空くことがなく、患者さんで常に埋まっていた。
G鍼灸院に来ている患者さんを見ていると、肩、腰、膝の痛みから内臓疾患、奇病、難病、リウマチ、ガンなどさまざまな患者さんがいた。
また、ほとんどは近所の人だが、遠方から来ている人もいた。
働きだして最初1番困ったのは、患者さんの名前が分からないということであった。
先生に「〇〇さん、これをやって!」と言われるが名前が分からない。
「〇〇さーん!」と探しているうちに
先生から「△△さん、次はこれ!□□さんはこれ!」と言われ、息も忘れるほどの忙しさ中、次から次であり、最初はあたふたするばかりであった。
そんな鍼灸院の仕事だったが、少し慣れた頃に先生から
先生「これから1ヶ月は食事や字を書くのは左手でするようにしなさい。」と言われた。
私「左手ですか?」と答えると
先生「鍼灸でもマッサージでも、左手も右手と同じように使えないとダメだ!左手が不器用なままだと鍼は打てない。」
と言われた。
私は先生の言うままに、その後1ヶ月は左手で食事、字を書くようにした。
最初は食事するにも時間がかかり、食べにくくて仕方なかったが、徐々に慣れ1ヶ月もするとそれなりに使えるようになった。
文字を書くのも同様で、最初は書けなかったが1ヶ月もすると下手だが書けるようになった。
左手が使えるようになると面白くなり、1ヶ月を過ぎても右を使ったり、左を使ったりしていた。
当時は練習の真意も分からず言われるままに左手の練習をしたが、鍼を打つようになり左手の重要性が分かった。
鍼を打つ際、右手は鍼を持ち鍼を打ち込むが、左手はツボの場所を特定し鍼をしっかり固定する役目がある。
左手が鈍いとツボの正確な位置が狂ってくる。また、しっかり鍼を固定できないと鍼を刺す時の痛みにつながる。
なるほどG先生の言ってた事はこれだったのかと数年後に分かった。
また、後に柔整(整骨院)学校の柔道大会で右肩を脱臼し1ヶ月ほど右手が不自由な時があったが、その時は左手でノートを書いていた。
それを柔整学校の先生が見て
「あれ、お前、左利きだったの?」と聞かれ
「鍼の修行で左も使えるようになりました。」と答えたら、「へー!」と驚いていた。
つづく。
「将来、鍼灸をやろう!」と決め、G鍼灸院の先生に相談したのだが、「やめたほうがいいよ。」と言われながらもG鍼灸院に見学に行く事になった。
G先生に「うちに勉強に来てみれば?」と言われ嬉しくなり、大学の空いた日に早速行った。
それまで患者として通っていたので鍼灸院の雰囲気は分かっていたが、実際見学してみると患者さんがとても多くて圧倒された。
患者で行った時はもちろん男性の部屋しか入れなかったが、他に女性の部屋が2つあり、全部でベットが30台ほどあった。
鍼灸院の広さは約30坪ほど、広いコンビニくらいあった。
そこでG先生は仰向けの患者さんに鍼を順々に打っていく。10分くらいしたらスタッフが鍼を抜いて、患者さんはうつ伏せになり、また先生が鍼を打っていく。また10分くらいしたら鍼を抜いて、吸い玉をしたりお灸をしたりいろいろしていた。
G鍼灸院には1日150〜200人ほどの患者さんが来ていた。
そして全ての患者さんにG先生が一人で鍼をしていた。
他の鍼灸院を見たことが無かったので「鍼灸院てこんな感じなのかなー」と思ってたが、この業界のことを知るとG鍼灸院の患者の多さは特別であることが分かった。
鍼灸の業界誌で1日80人に鍼をしているという鍼灸師を見たことがあるが、200人はケタ違いである。
G先生が鍼を刺す時間は見ていると1人20〜30秒ほどであった。
それくらいでないと30台もあるベットをまわれない。
1人30秒✖️30ベットで15分。10分くらいして鍼を抜くとちょうど良くベットがまわるのである。
しかしこれは凄すぎる。
鍼灸師になって自分で鍼を打つようになって初めてG先生の驚異的なスピード、技術の凄さが分かった。
今、私は1人2〜3分くらいで鍼を打つが、遅い鍼灸師は15分はかかる。
時間をかければ丁寧で良いと思うかもしれないが、逆である。上手い鍼灸師ほど短時間で的確に鍼を打つ。
下手くそほど遅く的も外れている。
後に井本整体の練習で何十人もの整体を受けるが、熟練した達人ほど瞬時に反応点を見つけ的確な技術を行う。相手の呼吸さえコントロールする。
逆に下手な人ほど、ツボを探すのに時間がかかり、そのわりにポイントもズレて全く効かないのである。
G鍼灸院の最初の見学をして、それから何回か見学をさせてもらったが、やはり鍼灸師になりたいという気持ちは変わらず
「G先生のところで勉強させて下さい!」
と申し出た。
しかも、私はすっかりその気になっていて
「大学を辞めて鍼灸院で勉強します!」まで言うと、G先生は冷静に
「大学は卒業しなさい。一度決めた事を中途半端で辞めるのは良くない。」と諭された。
G先生に諭され、それから大学に行きながら鍼灸院でバイトすることになった。弟子入りという形であった。
ちなみに大学の法学部は試験一発勝負の科目が多かったので、それからほぼ大学は行かずに鍼灸院で過ごすことが多くなった。
治療家への道 『完』
「鍼灸院になろう!」と決めてから、まずは父に相談してみた。
父は、「G先生のところは混んでるけど、他の鍼灸院はガラガラだよ。鍼灸で生活できるのかな?」と心配していた。
そらから治療に行った時にG先生にも相談したが、父と同じように
「鍼灸じゃ食べていけない。やめときな。大学行ってるんだったら普通に就職した方がいいよ。」
と言われた。しかし、私は
「僕の腰痛はどこにいっても治らなかったのが先生の鍼で治りました。先生のようになりたいんです!」
と言うと、G先生は少し考えてから
「それじゃあ少し勉強に来てみれば?実際、鍼灸を見てから考えてもいいんじゃない?」
と言われた。
私はG先生のところで勉強できるのが嬉しく「はい、よろしくお願いします。」
と即座に答え、ますます鍼灸師になる志しを強くした。
大学生の私はお金とか生活の事とか全く考えてなく、ただ「G先生のようになりたい」の一心のみであった。
しかし今、年を取り社会を経験し思えば確かに父やG先生の言う事は分かる。
鍼灸師はやり甲斐のある仕事だが、金銭的には厳しい。好きじゃないとやるべきではない。
鍼灸師は雇われて働いても、就職先は個人経営が多いので、給料も低く週休1日、有給休暇なし、ボーナスなし、退職金なし、社会保険なしの院がほとんどだ。(高橋はりきゅう整骨院はありますよ!)
たとえ開業してもサラリーマンの平均年収を稼ぐのは難しい、開業してサラリーマンの平均年収くらい稼げたら大成功だと思う。
しかも、もちろん開業したら有給休暇、ボーナス、退職金もない、健康保険は自分で加入し年金も国民年金だけである。病気で働けなくなったら収入もなくなる。そんな厳しい世界である。
なので、社会を知った人なら「本気でやる気がないのならやめときな。」と言うのも分かる。
鍼灸師の厳しい点ばかり書いたが、良い点としては仕事をして患者さんに喜んでもらえる。
喜んでもらえ自分も嬉しい。直接「ありがとうございました。」と言ってもらえる。
その点は最高の仕事だ。
私は今までこの仕事をしてきて多くの治療仲間、患者さんと出会った。楽しくもあり、やり甲斐のある仕事だったと思う。
思い出に残る楽しい患者さんとの出会いもあった。
この仕事は、患者さんを治療し私が患者さんを助けてると思われるが、実は私も患者さんに生き甲斐をいただいるのである。
感謝、感謝!
つづく。
大学は駒澤大学の法学部に入った。
サークルは高校の時にギターをやっていたので軽音サークルに入るか迷ったが、軽音サークルに入ると音楽漬けになり留年するだろうと思いやめた。実際、いくつか軽音サークルに見学や新歓コンパに行ったのだが留年してる先輩がたくさんいた。
しかし、どこにも入らないのもつまらないので何かに入ろうかと探していた。
「陶芸部」を見学したら居心地がよく、先輩も面白い人がいたので入った。
ちなみに面白い先輩はお笑い芸人を真面目に目指しており、ネタなども作っていた。
そんな陶芸部は大学では伝統ある部であり、一般サークルと違って部室があった。
一般サークルは部室はなく、庭に簡易的なイスと机を置いて集まっていたり、学食を占領しむろったりしていた。
陶芸部の部室はプレハブ小屋であり、小屋の隣にはちゃんと陶芸釜もあった。また部室では猫も飼っていて、授業がない部員が集まっておしゃべりをしたり憩いの場になっていた。
ちなみに、私が行っていた駒澤大学は大学と短大が同じ校舎で学生が多く、軽音だけで7つ以上、テニス、野球、サッカーなどの人気のあるスポーツは部とサークルだけでそれぞれ10〜20はあり、その他、ゴルフ、社交ダンス、落語、アメフト、人形劇、演劇、飲み会専門など様々な部、サークルがたぶん200以上あったのではないかと思う。
大学生活では授業と授業の間に空き時間があり、特に法学部は出席よりもテスト一発勝負の科目が多く授業にでない科目もあるので、私は大学に行っても部室にいることも多かった。
そんな時など暇な時間を使い陶芸に没頭していた。大学に行って陶芸だけして帰る日もよくあった。
一時期は、本気で陶芸家になろうかな?と思うほどであった。
もちろん陶芸家にはならなかったが、後に陶芸の技術が鍼灸マッサージに活かされた。
そんな感じで大学生活を送っていたが、大学2年も後半になると友人と将来の仕事ついて語り合うこともあった。
法学部の友人は半分以上は公務員志望であったが、中には「裁判所で働きたい」とか「弁理士」になりたいと言っていた友人もいた。その後どうなったかは不明である。
それまで私は将来について真剣に考えた事はなかったが、「そろそろ考えないといけないかな」と真剣に考えると、
公務員、陶芸家、サラリーマン?
自分は何をすべきなんだろう?
なんとなく考えていると、高2の時に「鍼灸!」というインスピレーションを受けた感覚がよみがえってきた。
鍼灸か。。。
そういえば、自分はあのまま腰痛のままだったら暗い人生だったかもな。
将来に希望もなく腰痛を感じたままの生活だっただろう。
あのままの人生だったら私はまるで死んだような人生だった。
そっか、どうせ一度は死んだと思えば、これからの人生は自分と同じように苦しんでる人を助ける人生にしたい。
どうなるか分からないけど、人生一回きりだし。
だめなら他の仕事を探せばいい。やるだけやってみよう!
今までボーっと過ごしていたが、急に「鍼灸がやりたい!」と思うようになった。
そう思ったら、やっぱりG先生しかいない。
今度、鍼灸院に行った時にG先生にこの事を話そう!
なんだか急に胸にこみ上げるものがあり「鍼灸師」になろう!との決意ができたのであった。
つづく。
大学生になってもG鍼灸院に週に一回は通っていた。
G先生に「もっと良くなりますよ」と言われたとおり身も心もみるみる元気になった。
腰痛もすっかり治り、内面も高校の時の暗い陰気な性格から明るく前向きな性格に変わった気がした。
週一回鍼灸を受けるようになり、鍼灸の素晴らしさを毎回実感していた。
鍼灸を受けた後はすごく体が軽くなる。
体中の細胞がみずみずしく生まれ変わったような何とも言えない爽快感を感じることもたびたびあった。
またG先生の鍼を受けるたびに「なんでそこが分かるの?」というように、やって欲しいツボに的確に寸分狂いなく鍼が当たってくる。
「そこそこー!なんで分かるんですか?」って感じだ。
そして刺された鍼が呼吸によって動く事により体中に心地よい響きとなり広がった。
こんな鍼を体感したのは今でもG先生だけである。
G先生はいとも簡単にやっていたが、これは鍼灸師となった今考えると非常に高度な技術である。
反応あるツボを的確に探し、深さ、角度、0.1mmの狂いもなく鍼を刺す。しかもそれを十本以上の鍼、全てで行う。至難の技である。
後に私は井本整体で「硬結」と呼ばれる反応点を探す練習をするが、「硬結」は鉛筆の芯ほど大きさあり、それを指で捉えるのも難しい。場所、深さ、角度を正確にとらえなけらば真の響きはでない。まして、そこに鍼を正確に打つなんて尋常ではない、究極の技である。
しかし、それができたからこそ鍼灸の真の力が発揮できたのだろう。今の私にやれ!と言われてもできるかどうか。。やる努力はしてますが。。
ちなみに私は鍼灸師になり有名な鍼灸師や、偉い鍼灸師はじめ何十人の鍼を受けたが、G先生のような体がリフレッシュされ体中からエネルギーが湧き出すような感覚になったことはない。
ある時は高名な先生の鍼灸を受けに関西まで行ったが、全く楽にもならず何も感じることもなく疲れて帰ってきた。
有名な先生や偉い先生だから実際の治療が上手い訳ではないのだ。そういう先生方はどちらかというと学問に優れていたり、鍼灸師会の活動を頑張っていたりするのだろう。
さて、G鍼灸院では木曜に鍼灸院の1室で気功体操会が行われており、大学生だった私も鍼を受けるついでに参加していた。
そこでG先生とは別のもう一人の恩人M先生と出会うことになる。
気功の会のことはまた後日書きます。いろんな不思議体験があります。
つづく。
父の紹介で行った鍼灸院では12月の寒い中、パンツ一丁で1時間近く待たされ治療は受けたものの怒りながら帰ってきた。
しかも、鍼治療も問診もなく少しお腹を触っただけで鍼を打たれ先生と交わした言葉は一言だけであった。
そんな鍼灸院から帰って1日が終わり「変な鍼灸院だったなー。」と思いながらその日は寝た。
しかし次の日、起きてみると
「えっ!腰が全然痛くない!!」
「全く痛くない!」
2年半以上痛かった腰痛が、たった1回の鍼で痛みが全く無くなってしまった!
「信じられない!」
「どうして?すごい!」
昨日は二度と行くもんか!と思っていたのに痛みがなくなり、またあの鍼灸院に行かなければ!と思った。
そして次の週に鍼灸院に行った。
先生に
「どこに行っても治らなかった腰痛が治ったんです。ありがとうございました!」
と興奮気味に言った。
先生は、さも当然と
「良かったですね。もっと良くなりますよ。」と一言言っただけであった。
(カッコいい!渋すぎる!)
え!でも、もっと良くなる?どういう事?
先生の言った意味が分からなかったが、それから週に一回通うようになった。
腰は1週間経つと痛くはないが少し重い感じがした。しかし鍼を打ってもらうとすごく体が軽くなった。
それからなんと実に3年間、その鍼灸院に通った。後半は鍼灸院で週に一度の気功体操会があり、それに参加して鍼も受けていた。
高1から痛かった腰痛は高3の12月にその鍼を受けてから50歳になった今までほば痛くない。1回だけ引越しの時、荷物を持ち過ぎて痛くなったがそれもすぐに治った。
私の高校生活はほば全て腰痛だった。
病院では検査の結果「異常なし」で、腰痛さえ認めてもらえず絶望した。
いろんな治療を受けたが良くならず将来に希望も持てず暗い高校生活であった。
今考えると、高校時代の腰痛は何だったのだろう?
つらかったが腰痛になり何人もの治療家と出会った。様々な治療法を受けた。
腰痛に悩む患者さんの気持ちも痛いほど分かった。治らないつらさも知った。
そして最高の鍼灸師の先生に巡り合った。
『腰痛は何だったのだろう?』
治療家となった今だから思えることがある。
本当につらい腰痛にならなければ患者さんの気持ちは分からなかっただろう。
腰痛になって様々な治療を本気で受けなければ、その良さも悪さも効果も分からなかっただろう。
いくら本を読んでも学校で習っても自分の体で体験しなければ本当のつらさ、治った喜び、患者さんの気持ちは分からない。
高校時代の治らない腰痛は、
治療家になるため、
様々な治療を体験するため、
患者さんのつらさを知るため、
最高の鍼灸師に出会えるため、
私に与えられた最高のギフトだった事に最近になってやっと気がつく事ができた。
腰痛に感謝!
腰痛高校生『完』