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院長高橋のヒストリーをブログで書いております。
今回は鍼灸接骨院修行時代の13回目。
分院長をしていた時、接骨院に「空き巣」が入った話です。
さて、どんな体験だったのか。。
私が分院長になって半年ほど経った頃だったと思う。
接骨院の昼休みは長く、午前診療が終わった後はスタッフ皆でランチに行くのが日課であった。
ランチに行っている間は接骨院は留守であり、その当時は入り口の鍵は閉めてなかった。
今考えると不用心であるが、お金は鍵付きの棚に入れてあったし、接骨院は盗むものもないと思って油断していた。
その日もいつもと同じように午前の診療が終わってスタッフとランチに出た。
ランチをした後、私は本屋に行きたかったのでスタッフと別れてそのまま本屋に向かった。
本屋に着いてぶらぶらしていると、スタッフの1人から電話がかかったきた。
スタッフ「高橋先生、大変です!空き巣が入りました!」
私「え!またまた〜。そんなこと言って。だまされないよ〜。」
スタッフ「本当なんです!本当に!」
私「またまた〜。冗談言って〜。」
スタッフ「本当なんですって!本当に空き巣が入ったんです!すぐ来てください!」
私「マシで?本当に?すぐ帰るよ!」
と、私は最初は冗談だと思ったのが、スタッフの真剣な訴えにただ事ではないと分かり、すぐに接骨院に戻った。
接骨院に戻ると、鍵付きの棚が壊されてお金が無くなっていた。
しかし幸いにそれ以外は何も被害は無かった。
それから警察に電話して、少しして警官が2名来た。
警官は1時間ほど実況見分をして、スタッフにいろいろ聞いていた。
私も「思い当たる人いますか?」と聞かれたが、その時は気が動転していたのか、
「特にいません。」と答えた。
しかし、あとで冷静になって思い出してみると、空き巣がある1週間ほど前に怪しい人がいたのを思い出した。
その人は11時半くらいに来て、施術を受けてかえったのだが、妙に目付きが鋭くあたりを観察しているようであり、なんとなく雰囲気が普通の人では無かった。
後日、警察にその事を言ったが
「それだけではどうすることもできない。」
と言われてしまった。
「犯人が捕まったら連絡します。」と言われたが、その後連絡はなかった。
この事があって以来、昼休みは鍵を閉めるようになった。
しかし、今思えば私を含めスタッフが犯人と鉢合わせにならなくて良かった。
若い活気盛んなスタッフが多かったから、鉢合わせになったらかえってお互い危なかったと思う。
接骨院の先生は柔道をやっている。
学校の時の友人はは引ったくりにたまたま遭遇し、犯人を半殺しにしてしまったと言っていた。
確かにコンクリに柔道技で頭から落としたら、かなり危ない。大外刈りで後頭部からコンクリ直撃したら、、、。
私が分院長をしていた頃、毎日接骨院に来る名物おばあちゃんがいた。
私が分院長で配置されるずっと前からその接骨院に来ている。
いつも右手首に包帯をしている。
年齢は、もう80才は過ぎていた。
お年寄りには珍しく夜更かし朝寝坊の生活で、いつも午前の診療の終わりに来ていた。
毎日来て、愛嬌ある性格でスタッフから
「Mちゃん、Mちゃん」
と可愛がられていた。
そんなMちゃんと、ある日お昼を他の先生達と一緒に食べに行った。
いろいろ身の上話を聞いていると、50才の時、旦那さんに先立たれ、それからずっと一人暮らしをしているそうだ。
接骨院は、それから2年後くらいから来ていると言う。
「へーそうなんですか。」
と聞いていたが、
ん?
「初めて接骨院に来たのは何でですか?」
と聞くと、
「手首が痛くて来たんだよ。」と。
「え!まさか、その時から手首が痛いのですか?」
と聞くと、なんとそうらしい。
病院でもいろいろ検査し、軟骨を損傷していると診断されたそうだ。
病院では治療がないと言われたらしい。
「じゃあ、30年間ずっと手首に包帯してるんですか?」
と聞いたら、そうだと言う。
確かに手首を治療する時に包帯を取ると、手首だけ日焼けしていない。真っ白である。
Mちゃんの手首の病名は、手首の外側、小指側の軟骨を痛める
「三角線維軟骨損傷」(TFCC) であった。
これは、非常に治りが悪いので有名である。
外傷や老化でも起こる時がある。
もともと血流が良くなく、回復しにくい箇所である。
当時の私は、痛い箇所に電気(低周波)をしたり、マッサージしたり、鍼することしかできなかった。
今だったら手首に関連する関節の調整するだろう。
手首が治らない人に共通するのは、肩甲骨や首の前の筋肉が硬くなっている。
そして、肩が内に巻いたようになっている。
今思うと、Mちゃんも肩が内に巻いたようになっていた。
ただ一つ気になるのは、旦那さんが亡くなった後に接骨院に来て、それからずっと接骨院に来ていた事だ。
スタッフから「Mちゃん、Mちゃん」と可愛がられ、毎日接骨院に来て、よくスタッフと昼食を食べに行っていた。
そんなMちゃんの手首は、今思えば、治らないのではなく、治りたくない手首だったのかもしれない。
手首がなおってしまったら接骨院にくる必要がなくなってしまうから。
そんなMちゃんは、私の思い出に残る患者さんの1人である。
最近のお婆ちゃんは皆、若くオシャレでMちゃんのようなお婆ちゃんらしいお婆ちゃんは少なくなった。
鍼灸接骨院で働いている頃、祖母に
「親戚のお婆さんが、膝が痛くて歩けないから鍼灸をして欲しい」
と言われ、治療に行くことになった。親戚といっても、今まで全く会ったことがないお婆さんであり、家はそれほど遠くなく、車で15分ほどの距離であった。会ったこともない人に鍼灸をするのは初めてで、少し緊張しながら行ったのを覚えている。
お婆さん家は、ある駅のすぐ近くにあり、そこでお婆さんは自転車置き場をしていた。そこは猫とお婆さん、一匹と一人だけしかいなかった。
そしてお婆さんは、膝が悪いため駐輪代を受け取りに行くのに時間がかかり、自転車を停めてるお客の中でお金を払わないで帰ってしまう人が多かった。
私が様子を見ていると、「すいませーん!」とお客さんに言われても、膝が悪い為、お婆さんはなかなか出ていけない。お客さんは、少しは待つが、出てこないとそのまま帰ってしまうのだ。
お婆さんは、「停めてるやつらの半分しか金を払わねー。」と怒っていたが、特にお金に困っているようでもなく、なんとなくその光景がユーモラスにも見えた。
その家で飼われている猫は、外に出たら危ないからと首輪をされて、5m位のひもで柱に繋がれていた。猫は、一日中、同じ半径の円の中をぐるぐるしていて、その為、猫の周りだけ絨毯がはげていた。なんだか少し猫が可哀想な気もしたが、餌が食べ放題らしく、よく太っていた。
そんなノホホンとした感じの所なので、よく近所の猫好きな主婦やお年寄りがよく集まって、猫話に花を咲かせていた。
それから、お婆ちゃんの家に週に一回ほど鍼灸治療をやりに行くようになり、3回目くらいに行った時に、猫好きの近所の奥さんがいて、鍼灸治療を見ていて、
「友達が足が痛くて、どこにいっても治らないみたいで、今度、一回みてもらえないかなー。」 と言い、
軽い気持ちで「いいですよ。」と言ったら、次の週に本当に友達が来ていた。
膝から足首あたりが痛いらしく、「足を地面に着くのも痛い」と言っていた。特に関節などに異常はなく、神経痛の一種かなと思い、とりあえず師の鍼灸の真似をして自分なりに一生懸命治療した。
次の週に行くと、先週治療した人も来ていて、「あれから嘘のように痛くなく、びっくりした。」と言い、さらにその人の友人を2人連れてきていた。
また次の週にいくと、また1人増えていて、一気に5人になった。
師が一日大勢、鍼治療するのを普段見ていたから、「5人くらいなんでもないや」と思っていたら、意外に時間がかかり、疲れた。
つづく
接骨院で働いて3年ほど経った頃、ある分院の分院長が辞めることになり私がそこの分院長として配属になった。
それまでいた分院は患者さんが1日60〜80人ほどでスタッフが5人ほどたったが、配属になった分院は1日30人ほどの患者さんをスタッフ2人でやっていた。
配属されて行ってみると、今までの大人数を多数のスタッフで施術するのと違い、患者さんとの距離が近くアットホームな接骨院であった。
少し働き出すと、患者さん1人1人にかけられる時間が長く、ゆっくり施術ができて「こういう院もいいな〜。」と思った。
思えば、最初に弟子入りしたG鍼灸院は1日200人もの患者さんが来て、息もつかないほどの忙しさであった。患者さんとゆっくり話してる暇なんて無かった。
また、前の接骨院もかなり忙しかったし、大人数がいるために個人的な話はできない雰囲気だった。
それに比べ新しい分院は時間的に余裕があり、ゆっくり施術できた。
しかし、のんびりできていいなーと思っていたら、だんだん患者さんが増えてしまい2人では対応できなくなり、その後3人体制となった。その頃は1日50人を超えていた。
それから分院長は1年間やらせて頂いたが、開業前に分院長を経験して大変勉強になった。
この後、自分で開業するのだが分院長を経験させて頂いたおかげで開業してからも全く困らなかった。
分院長として治療施術だけでなく事務仕事も勉強できたのが大きいと思う。
開業する前に分院長を経験するのは、開業後に成功するために必要かもしれない。
自分で1つの整骨院を運営する練習になる。
二子玉川にある整体協会には学生の時を含め4回程行った。
現在の整体協会は操法(施術)は行っていない。
私は主に活元体操の会に行っていた。
活元体操とは、床に座り音楽を聴きながら自分の身体を感じて動かしたい方向に体を動かす体操である。
なのでラジオ体操のように決まった動きはしない。
人それぞれ違う動きなのだ。
初めて見ると皆んながクネクネ変な動きをしていてチョット不気味に見える。
しかし、やってみると心地よい。
頭を空っぽにして何も考えないで自分の体を感じ、動かした方向に動かす。
それが自然と体を整える動きになるのだ。
終わった後は心も身体も解放された感じがした。
活元体操は身体というより、むしろ精神を解放する効果が高いと思う。自律神経を整えリラックスできる。
筋肉を鍛えたり関節の可動域を広げる体操とは違う。
そんな活元体操は二子玉川の整体協会本部だけではなく、あちこちでやっていると思う。ご興味ある人は調べてください。
個人的には好きな体操ですが、初めは抵抗あるかもしれません。
私は普段は瞑想をする前に活元体操を少しやったりする。
瞑想をする前に活元体操をやると体の緊張がほぐれリラックスできより深い瞑想に入れる。
野口整体については今でも影響を受けている文化人が多くいるが、野口晴哉先生がご存命の時は治療家、教育者、文学者、音楽家など幅広い分野で野口整体のは信奉者がいたようだ。
私自身は後に野口整体の技術を伝える「井本整体」に縁あって通うことになる。「井本整体」の話はまた後で書きます。整体狂時代が後に始まります。
つづく。
院長高橋です。
今回はニキビが鍼で良くなった娘の話を書きます。
私の娘は2人いるのですが、高1と中1でニキビができやすい年頃です。
特に中1の娘はニキビと共に顔が少し赤くなりいつも上気しているような顔をしてました。
私が
「鍼をすればニキビが良くなるから鍼しようか?」
と何回か言っていたのですが、
「痛そうだからヤダ!」
と断われてました。
しかし、ある日に再び聞くと、よほどニキビに悩んでいたのか
「じゃあ、やって!」
と鍼をやることを覚悟したようです。
いちおう脈と舌を診ると、予想通り「肝火上炎」(のぼせのひどいもの)でした。
鍼は頭の内熱をとる百会、のぼせを治す太衝(右)を使いました。
使用したツボは2穴のみ。
終わって
「どうだった?」と聞くと
「良く分かんない。」と言ってました。
さて、次の日、娘の顔を見ると赤みが消え、明らかに白くなってました。ニキビの赤さもなくなって以前より目立たなくなってました。
それから数日してニキビ自体も少なくなってました。
鍼でニキビが良くなるのを経験した次女は、それからは自分から「鍼やって!」と言ってくるようになり、週に一回ほど鍼をやるようになり、次第にニキビがでなくなりました。
さて、次女のニキビが良くなるのを見ていた長女。
今度は長女が「鍼やって。」と長女も鍼をやるようになりました。
使ったツボは次女と同じ。2穴のみ。
すぐに効果が現れ長女のニキビも良くなりました。
ニキビは薬を飲んだり、クリームを塗ったりしますが、ニキビの根本原因は内熱(熱がこもってしまう事)だと思います。
青春時代はホルモンの影響で熱がこもり、のぼやすくなっているのでしょうね。
熱を抜くのは漢方薬もありますが、鍼が最も得意とする施術です。
とりあえず、今回、娘2人に鍼の効果を体験させることがてきて良かったです。
鍼灸接骨院編の途中ですが、なりゆきで野口整体について書いてます。
私が野口整体を知ったのは鍼灸修行時代に師に勧められたからであり、二子玉川にある整体協会には何回か行き活元体操などした。
野口整体の本は「全生社」という整体協会の自主出版であり、当時は二子玉川の整体協会に直接行くか電話して注文しないと買えなかった。
野口先生の著者は20冊以上あると思う。
私が好きなのは「治療の書」であるが、実は奥様の昭子さんの著者「朴葉の下駄」が当時の様子や野口整体の心理指導について実体験を基に描かれていて私は好きだ。
野口先生の「体癖論」も興味ある人は読むべきだ。
「教育」について書かれた本も面白い。
しかし、心理指導の本は難しい。読んでいてこんがらがってきて最後は訳わからなくなる。上級者向けだと思う。
奥様の昭子さんの著者「朴葉の下駄」では、野口先生との出会いや、昭子さんの父、近衛文麿首相が戦争犯罪人として東京裁判の日を前に自決する様子が書かれている。
近衛文麿元首相が自決する記述は、野口整体の心理指導を代表する事柄だと思うので少し書きます。
私の記憶のまま書くので詳しく知りたい方は本を読んでください。
第二次世界大戦終了後、日本は降伏しGHQによる戦後処理が始まる。
近衛文麿元首相は戦争犯罪人が濃厚となり、いわゆる東京裁判を受ける事になる。おそらく判決は死刑。
裁判を前に近衛文麿元首相は自決を決意する。
そのことに気づいた昭子さんはひどく動揺する。
(ちなみにこの時2人は結婚していたのだが、昭子さんは野口先生のことを夫でありながら「先生」と呼んでいた。昭子さんにとっては夫であり先生であったのだと思う。)
昭子さんはひどく動揺し、いてもたってもいられなくなりどうしても先生に会いたくなる。
そして先生に会い父の自決の意志を伝えると
「お父様の自決を止められるのはあなたしかいない。あなたが止めさせなさい。裁判で自分の所信を言うべきだ。」
と言われる。
しかし、昭子さんは野口先生の言葉を受け入れることができず
「父が決意して決めたことをどうして私が止められようか。父を止めることはできない。父の意志を尊重することこそが正しいことなのだ。」
と悟るようになる。
また同時に「先生はなんでそんなことを言うのか?私に父の意志を無視しろと言うのか。」と腹立たしくもなる。
翌朝、裁判の日、昭子さんが予期していた通り近衛文麿元首相は毒薬を飲み自決していた。
昭子さんは
「これで良かったんだ。父の意志を尊重した事が正しかったんだ。」と自らに言い聞かせ心を落ち着かせた。
「いつもは先生の言うことは正しいが、父の死については私の方が正しかったんだ。」
と思い、その後数年経ってもその考えは変わることはなかった。
それから数十年経ち、野口先生か亡くなる。
亡くなった後、ふと昭子さんは父の死について考えた。
「今思ってもやはりあの時だけ私が正しかったんだ。」
でも、なんであの時、先生はあんなことを言ったんだろう?
考えてみると、先生が本気であのような事を言うとは思えない。
そういえば、あの時、父の死の決意に気づいて自分の心はどうしようもなく動揺していた。
いてもたってもいられなくなり先生と会った。
先生は
「あなたが止めなさい、あなたしか止められない。」
とおっしゃった。
私は先生の言葉に反発し、父の意志を尊重する事ことが正しいことだと悟るこのができて、動揺していた心がスーッと落ち着くことができた。
ああそうか、そうだったのか。
あの時、先生はわざと私の反発を誘導したのだ。
結果、私の心は平静を保てたのだ。
先生の言葉によって動揺していた心は落ち着き父の意志を受け入れることができたんだ。
ああ、そうだったんだ。
先生が亡くなって数年経ち先生の意図していた真意がやっと分かった。
先生を思うと、先生は雲の向こうで「遅い、遅い」と笑っているようだった。 概略
『朴葉の下駄』野口昭子 ちくま文庫
野口整体の心理指導は、あたかも本人が自分で決意したと思うように導かなければならないという。
強制してやらせるのは最も良くないやり方であり、本人が自ら進んで行動したと思うように導くことこそ、理想の心理指導としている。
それは強制された者は意欲を失い、自ら進んで行った者のみ自活する意欲が出てくる原則があるからだと思う。
教育でも健康でも仕事でも全てに共通する真理だろう。
つづく。
鍼灸接骨院編の途中ですが鍼灸学生時代から時々、野口整体の体操会に行っていたので、野口整体について書いていきます。
野口整体は私の鍼灸の師に
「整体はだいたいくだらないものだが、野口整体だけは本物だぞ。」と言われていたので、本を読んで勉強していた。
野口整体はあまりにも有名で、この業界で野口整体を知らない人はもぐりだ!と思うが、野口整体についてはどう説明していいか困ってしまう。
簡単に言うと「人の理想的な生き方を追求した学問」である。
行動学であり、心理学、健康法、教育学など
多岐に渡る。
「整体」というと単なるマッサージのような施術をイメージするが、野口整体の整体とは「心と体が整った状態」のことをいう。
施術は整体を導く1手段にしかない。しかも野口先生は晩年、施術(整体操法)を禁止した。
今回は整体協会の野口晴哉氏の紹介文を載せますので、とりあえず野口晴哉という人がどういう人だったかを理解してみて下さい。
野口晴哉氏について(整体協会より引用)
明治四十四年九月、九人兄弟の次男として東京・上野に生まれる。幼い頃に患ったジフテリアの影響から言葉を話すのに不自由し、幼少期を過ごした漢方医の叔父の許では、さまざまな読書に明け暮れたという。大正十二年、十二歳の時に関東大震災を体験し、焼け野原で苦しむ人たちが悼まれず、本能的に手をかざしたところ多くの人たちが快復、これをきっかけに治療家としての道を志す。
古今東西の健康法や療術などを独自に探求し、十五歳で入谷に道場を開き、愉気と活元運動を主体とした療術団体『自然健康保持会』を設立。また、十七歳で「健康に生くることが自然順応の姿である」などとする『全生訓』を発表し、以後、一貫して「活き活きと生を全うする」ことを指針に据えた活動に入る。
日本治療師会の評議員を務め、大日本連合治療師会の創設にも寄与。そして治療理念の確立、諸療術の体系化を図る「整体操法」をまとめ上げ、昭和二十二年には整体操法の指導者育成機関として『整体操法協会』を設立。昭和二十年代後半には身体を通した人間の個性研究とも言える「体癖論」の基礎を完成させた。
この頃から、病を治すことよりも人間本来の力を引き出して健康に導く自らの活動を「体育」と位置づけ、「治療」を捨てることを決意。何かに頼ることなく自らの足で立つことを指導理念に掲げ、昭和三十一年、そうした健康観に基づく体育団体『社団法人整体協会』を文部科学省(旧文部省)の認可を受けて設立。個人指導のほか活元運動の普及、愉気法などさまざまな整体法の講習会を全国各地で開き、心と体を一として考える独自の人間研究においても体癖をはじめ潜在意識の研究、子育て、教育などの分野にも踏み込み、多くの著作を残した。
カザルスを唯一の師と仰ぐほど音楽を愛し、妻昭子(一九一六~二〇〇四)との間には四人の子息をもうけ、昭和五十一年六月、東京・狛江の自宅にて家族に見守られ六十四歳で永眠。
以上
改めて読むと15歳で道場を開き療術団体を作るとは驚きですね。
ちなみに野口先生の奥様の昭子さんは、元首相の近衛文麿の御長女です。
近衛家といえば、歴史に詳しい人はご存知でしょうが名家中の名家。公家の中で最も天皇家に近い家柄と言われてます。
なぜそんな名家のお嬢さんが、医者でもない一治療家と結婚したのか?
そのあたりも次回書きます。
つづく。
私が鍼灸学校に通っていた当時は鍼灸の臨床の本は限られていた。
私が学生の時、特に好んで読んだのが鍼灸師の代田文誌さんの著書だった。
代田文誌さんは鍼灸の名人澤田健氏に弟子入りする。
澤田健先生の治療を間近で見て、それを本にまとめていりる。
弟子時代の「鍼灸真髄」も澤田健先生の鍼灸治療がいきいきと書かれていて面白い。
また独立した後の著者では澤田健先生の太極療法をベースに難病を鍼と灸のみで治していく経過がかかれている。治療法のみならず治療家としての心構え、患者さんとの関わり方など臨場感持って書かれていて私は読んでいてわくわくしていた。
後に代田文誌さんは皮電計という皮膚の電気抵抗を測る機械を使っての鍼灸も行っている。
私は越谷の鍼灸接骨院で働いている時、なんと代田文誌さんの息子さん(文彦さん)と学生の時に友達だったというおじさんが患者さんで通っていた。
代田家に遊びに行って、ものもらいのお灸を文誌さんにしてもらったと言っていた。
ものもらいのお灸は、太極療法では有名で手の人差し指の関節にする。澤田流ニ間だ。
お灸をしてもらったらすぐに治ったそうだ。それ以外にも時々お灸をしてもらったそうだ。
私も一度、代田文誌さんの息子さんの文彦さんの開演を聴きに行ったことがある。
文彦さんの話によれば
「親父に胃兪にお灸しろと言われて、患者の胃兪にお灸をしたら、そこは胃兪じゃないと言われたそうだ。ツボは合ってるはずなので、ここは胃兪だろう?と言うとは文誌さんは胃兪とは全然違うところに印を付けたそうだ。しかも左右がかなり違っていて、これが胃兪?と聞くと、この患者の胃兪はここなんだ。」と言われたそうだ。
この話を聞いて、なるほど私は文誌さんの本を学生の時にほぼ全て読破したが、ツボは教科書通りでなく反応のある箇所なんだ知り勉強になった。
しかし、2023年の現在、太極療法はあまり流行っていない。どちらかというと澤田流太極療法は点灸(もぐさを直接皮膚で燃やすやり方)が主だからかもしれない。
これは私の推測だが、今の鍼灸の流派で長野式鍼灸がある。長野潔先生は著者の中で太極療法を勉強していたと述べている。
私も長野式鍼灸を勉強したが太極療法と使っているツボが非常に似ている。
長野式鍼灸は処置法を分かりやすくまとめ初心者でも処置法を覚えれば使えるようになっているが、太極療法の影響も多分に受けていると思われる。
以下、ネットから転用。説明です。
代田文彦
信州大学医学部を卒業後、東京大学医学部内科学物理療法学教室に入局。 1969年より財団法人日産厚生会玉川病院に勤務し、漢方薬と鍼灸による東洋医学に基づいて内科医と鍼灸師が共同で治療にあたるチームをつくり上げた。 日本鍼灸治療学会理事、日本東洋医学会会長などを歴任。
太極療法
太極療法(たいきょくりょうほう)とは、澤田健が提唱した治療の概念である。澤田流、澤田流太極療法とも呼ばれる。
治療内容はどんな病気も全体の調子を整えることで回復が早まることから局所の病気だけにとらわれることなく、全体調整を目的とした治療概念である。主な基本穴は、百会穴、身柱穴、肝兪穴、脾兪穴、腎兪穴、次髎穴、澤田流京門(志室穴)、中脘穴、気海穴、曲池穴、左陽池、足三里穴、澤田流太谿(照海穴)、風池穴、天枢穴などである。
つづく。
今回は肩の脱臼を治した話ではなく、私が肩の脱臼をした話です。
柔整(接骨院)の学校では年に1会柔道大会があった。
確か2年生の時の柔道大会だった。
勝ち抜き戦で1人に勝って次の相手と戦った際、タックルのように私が足を取りに行った時、腕を前方に強くひっぱられ右肩を脱臼してしまった。
脱臼したのは初めてだったが、かなり痛かった。
脱臼しそのまま抑え込まれ試合は負けたのだが、最後の礼の時に右手がふとももに付かないので、これは普通じゃない事が分かった。
柔整学校は骨折、脱臼の学校なので、スペシャリストがたくさんいる。
たくさんの人が集まってきてビデオも撮られた。
先生に「どの治し方がいい?」と聞かれたが、
私は「痛くないのでお願いします。」と答えた。
先生は
「せっかくだからあまりやらないやり方やるか?」
と言われ
(せっかくって?なんでもいいから早く治して!)と思い
「はい、お願いします。」と答えた。
ちなみに肩の脱臼の1番簡単な整復法は「ゼロポジション法」だろう。
ゼロポジション法は、脱臼している腕をバンザイのように上げ少し牽引し腕を内旋しながら下ろしていく。
これで脱臼している骨が入るのである。安全簡単なやり方である。
後に肩の再脱臼した際は自分でゼロポジション法をやり1人で治した。
しかし、この時行ったやり方は「コッヘル法」だった。肘を曲げたまま脇から離し腕を内旋しながら肘を反対の肩に向かって上げていくという複雑なやり方である。
「コッヘル法」をしてもらうとガクンっ!という衝撃と共にで骨が元の場所に戻った。
骨が元に戻ると油汗が出るような痛みは無くなったが、まだ痛かった。
肩の脱臼は骨が外れると共に関節包が破れる為、1ヶ月程は三角巾などをして使わない方が良いのだ。
それから2週間は大人しくしていたが暇でつまらなくなり、2週間後からは接骨院の仕事をした。
腕を上に上げない限りは痛みはなかったのだ。
また同僚に鍼をやってもらい鍼を受けると痛みがだいぶ楽になった。
それから1ヶ月も経つと普通に使えるようになったが、完全に回復するのは3ヶ月ほどかかった。
しなしながら右肩の違和感、存在感はこれ以降ずっとある。痛くないし何も不自由もないのだが、他の部分と違って少し冷える感じがする。
東洋医学では大きな怪我をすると「瘀血」(おけつ)という血行不良が起こると言うが、まさにそれだろう。
寒い日などは疼く感じがするのだ。
つづく。