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今回の話は超マニアックな内容です。
興味ある人は読んでください。
『傷寒論』で面白いのは、風邪には入り口が2つあると書かれていることだ。
傷寒論では背中の上の部分を「表」と呼び、お腹を「裏」と呼ぶが、風邪の入口は表、裏の2つである。
風邪は体力のある人は背中(表)から入り、体力のない人はお腹(裏)から入る
背中から風邪が入る?お腹から風邪が入る
これはどういうことだろう?
なぜ古代中国人は、このように考えたのであろう?
これは私見ではあるが、背中(表)というのは扁桃の反応ではなかろうか?
扁桃はのどにあるリンパ組織で、ウイルスや細菌などがからだに侵入しないよう防御する役割を担っている。
ツボに「風門」というツボがあるが、表(背中)にあり風邪で喉が炎症を起こすと張って硬くなる。
風邪を引いて扁桃に反応がでて背中が張って硬くなる人がいる。
また、扁桃で防御できなく反応がなく背中も張らない人もいる。
扁桃で防御できる人は体力のある人であり、防御できない人は体力のない人である。
つまり
体力のある人→扁桃腫れる→背中が張る→背中が入口
体力ない人→扁桃腫れない→背中張らなく胃腸にくる→お腹がが入口
私は傷寒論における風邪の入口というのはそういうことなのだろうと考えている。
傷寒論では、それぞれのタイプの経過に合った漢方薬が記載されている。
「葛根湯」は体力があるタイプの人の薬である。
「葛根湯」は表(背中)を温める薬であり、原料は葛の根である。葛餅に使われる葛(くず)である。
表を温める薬なので首凝り、肩こり、五十肩などの症状ななも有効なのである。
現代医学的に考えると上記の通りだが、古代人は現代人よりもはるかに直感に優れていただろうから、別の意味もあるかもしれない。
開業した年の7月頃〜12月にかけて『傷寒論』の勉強会をうちの整骨院でやっていた。
傷寒論は後漢末に張仲景によって著されたもので、黄帝内経とならぶ中国医学四大経典の一つであり、日本で医学経典として長く支持されてきた書籍てある。
外感病(今でいうインフルエンザなど)の経過とその漢方薬が主に書かれている。
有名な葛根湯、麻黄湯、小青竜湯なども傷寒論が元になっている。
鍼灸師が何故、漢方薬の本である傷寒論を勉強するの?と思われるが、外感病に対応する鍼灸を学ぶためである。また外感病だけでなく内傷病(内臓疾患)にも応用できる。
漢方薬では葛根湯が有名で「風邪の初期に葛根湯!」と言われているが、実は傷寒論で葛根湯が出てくるのはそれほど初期ではない。
また症状別に薬が分かれていて「風邪の初期に葛根湯!」と言うのは非常に雑ないい方であると思う。
ちなみに勉強会をやるきっかけは、鍼灸師の元同僚に
「傷寒論の勉強会をやりたいんだけど、場所がなくて高橋先生の整骨院を使わせてくれない?」
と言われたことだ。
勉強会は金曜夜8時からだったが、私も興味があったので快諾した。
講師は天下の「北辰会」藤本蓮風先生の「藤本漢祥院」で内弟子をされたR先生。
勉強会には20名ほど集まり、R先生の講義を熱心に聞いていた。夜8時過ぎから始まり12時を過ぎることもたびたびあったが、皆、学ぶ事に夢中で時間など気にしていなかった。
私は場所を提供してるので休むわけにいかず全て出席した。
金曜の夜に飲みにも行かず、漢方古典を勉強してるなんて奇特な集団だったが、今となってはいい思い出である。
2000年5月1日、28歳の時、春日部中央にて鍼灸整骨院を開業した。
実は働いていた接骨院を退職する時は、その後どうするかは全く考えていなかった。
それまで数年間、鍼灸院で働いてから大学、専門学校のWスクール、日曜もなくバイト、接骨院でも日曜出勤もあり忙しい毎日を過ごしていたので、少し休みたかった。のんびりしたかった。
しかし、実際何もしないでのんびりしていると2週間で飽きてしまった。
さて、どうしよう?
どこかで働くことも考えたが、結局開業することにした。
それから不動産屋さんをいくつか回り良さそうな物件を見た。3カ所ほど候補があったが、結局春日部中央の物件を借りることにした。
物件が決まると後は早くて、2ヶ月位で準備を整え開業となった。
整骨院は最初は妹が受付をやり、私と2人で始めた。
妹は、それまで大学病院の教授の秘書をしていたが、私が「整骨院を開業する」と言うと「受付をやる」と言い出し大学病院を辞めてしまった。
しかし受付がつまらなかったらしく2ヶ月で「辞める」と言って、元の職場に戻ってしまった。妹はその後、医者と結婚したので整骨院を辞めて良かったのだろう。
そんな妹もいたお陰で、整骨院には大学病院から開業祝いのお花が届いた。
整骨院に来た患者さんの中には
「ここの先生は〇〇の大学病院出身で上手いらしいよ。」
と噂をする人もいたが事実は前述の通りである。
また、私の両親が春日部で働いていたので、開業してから両親の職場の人が結構来てくれた。
開業当初は両親の知り合いや、親戚、私の友達などからお花がたくさん送られて、部屋が花でいっぱいになり「ここは花屋?」という感じであった。
開業して3ヶ月ほどは暇であったが、暇な時間はのんびり本を読んで過ごしていた。
3ヶ月過ぎた頃より忙しくなり、それ以降、今までずっと忙しい。
途中、コロナで暇な時もあったが基本忙しく、ありがたい限りである。
私の時代は開業が一つの目標であった。
28歳で開業し患者さんも徐々に来てくれて、春日部に根付くことができた。
2023年、現在、開業してから23年経つ。
あと何年できるか分からないが、もう少し頑張ろうと思う。
これからもよろしくお願いします。
5月の勉強会は「小顔矯正」を行いました。
いつもは「整体」の勉強をしてるのですが、たまには変わった事をやろう!と「小顔矯正」をやりました。
写真、男性(私)右側だけ施術をうけたのですが、施術した右側だけほうれい線が消えてます!
左側もやって欲しかった!
写真、女性も頬がスッキリしてほうれい線が薄くなってます。
「小顔矯正」の施術は、顔だけでなく頭から行うのですが、意外と頭が気持ちいい!!
施術受けていると気持ちよくて眠くなってきます。
まだ整骨院の施術メニューとして出してないのですが、ご希望ありましたらお問合せ下さい。
美容鍼と一緒に受けると効果的だと思います。
院長高橋のヒストリーを書いてます。
今回は鍼灸接骨院修行の14回目。
10院ほどある接骨院グループの分院長をやって1年半ほど経った。
仕事に特に不満もなく給料もそこそこも貰っていたのが、私には「開業」という目標があった。
今までの何ヵ所かの仕事はお金のためでなく、開業の為の修行であるという意識が強かった。
なので、別に給料が高いとか低いとかは全く気にしたことがなかった。
むしろ、勉強になるかならないかの方が私には重要であった。
その頃、分院長を1年半やらせていただき、接骨院の業務はだいたいできるようになっていた。
バイトの期間も含めると4年ほど在籍していた。
私は「ここで学ぶことは学んだ。」と思い、総院長に退職を申し出た。
総院長は
「〇〇先生に引き継いてもらって、落ち着いたら退職でいいです。」
と言ってくれた。私は安堵した。
というのも、今まで退職した人を見てきたが9割は喧嘩して辞めていっていた。
喧嘩の内容はさまざまであった。
引き継ぎが終わらないまま急に辞めたり、給料や退職金で揉めたり、人間関係で辞める人もいた。
開業の場所をめぐってかなり揉めたケースもあった。中には分院長をやったいたすぐ近くに開業する、恩を仇で返す人もいたのだ。
今までを見ていると円満退職は稀であった。
私の場合は、総院長はささやかながら送別会を開いてくれて円満退職であった。
同じ業界で生きて行く以上は、円満退職の方がいいに決まっている。
私は開業した後、あるトラブルがあり、この時の総院長に相談させてもらったことがある。
総院長は快く相談に乗ってくれた。
退職で喧嘩別れしたら、そういう訳にはいかない。本当に困った時に相談できる人がいるのはいいもんだ。
うちも開業して20年以上経つが、表だった喧嘩別れは少ない。
もちろん辞める時は、何かしらあるのだろうが。
院長高橋のヒストリーをブログで書いております。
今回は鍼灸接骨院修行時代の13回目。
分院長をしていた時、接骨院に「空き巣」が入った話です。
さて、どんな体験だったのか。。
私が分院長になって半年ほど経った頃だったと思う。
接骨院の昼休みは長く、午前診療が終わった後はスタッフ皆でランチに行くのが日課であった。
ランチに行っている間は接骨院は留守であり、その当時は入り口の鍵は閉めてなかった。
今考えると不用心であるが、お金は鍵付きの棚に入れてあったし、接骨院は盗むものもないと思って油断していた。
その日もいつもと同じように午前の診療が終わってスタッフとランチに出た。
ランチをした後、私は本屋に行きたかったのでスタッフと別れてそのまま本屋に向かった。
本屋に着いてぶらぶらしていると、スタッフの1人から電話がかかったきた。
スタッフ「高橋先生、大変です!空き巣が入りました!」
私「え!またまた〜。そんなこと言って。だまされないよ〜。」
スタッフ「本当なんです!本当に!」
私「またまた〜。冗談言って〜。」
スタッフ「本当なんですって!本当に空き巣が入ったんです!すぐ来てください!」
私「マシで?本当に?すぐ帰るよ!」
と、私は最初は冗談だと思ったのが、スタッフの真剣な訴えにただ事ではないと分かり、すぐに接骨院に戻った。
接骨院に戻ると、鍵付きの棚が壊されてお金が無くなっていた。
しかし幸いにそれ以外は何も被害は無かった。
それから警察に電話して、少しして警官が2名来た。
警官は1時間ほど実況見分をして、スタッフにいろいろ聞いていた。
私も「思い当たる人いますか?」と聞かれたが、その時は気が動転していたのか、
「特にいません。」と答えた。
しかし、あとで冷静になって思い出してみると、空き巣がある1週間ほど前に怪しい人がいたのを思い出した。
その人は11時半くらいに来て、施術を受けてかえったのだが、妙に目付きが鋭くあたりを観察しているようであり、なんとなく雰囲気が普通の人では無かった。
後日、警察にその事を言ったが
「それだけではどうすることもできない。」
と言われてしまった。
「犯人が捕まったら連絡します。」と言われたが、その後連絡はなかった。
この事があって以来、昼休みは鍵を閉めるようになった。
しかし、今思えば私を含めスタッフが犯人と鉢合わせにならなくて良かった。
若い活気盛んなスタッフが多かったから、鉢合わせになったらかえってお互い危なかったと思う。
接骨院の先生は柔道をやっている。
学校の時の友人はは引ったくりにたまたま遭遇し、犯人を半殺しにしてしまったと言っていた。
確かにコンクリに柔道技で頭から落としたら、かなり危ない。大外刈りで後頭部からコンクリ直撃したら、、、。
私が分院長をしていた頃、毎日接骨院に来る名物おばあちゃんがいた。
私が分院長で配置されるずっと前からその接骨院に来ている。
いつも右手首に包帯をしている。
年齢は、もう80才は過ぎていた。
お年寄りには珍しく夜更かし朝寝坊の生活で、いつも午前の診療の終わりに来ていた。
毎日来て、愛嬌ある性格でスタッフから
「Mちゃん、Mちゃん」
と可愛がられていた。
そんなMちゃんと、ある日お昼を他の先生達と一緒に食べに行った。
いろいろ身の上話を聞いていると、50才の時、旦那さんに先立たれ、それからずっと一人暮らしをしているそうだ。
接骨院は、それから2年後くらいから来ていると言う。
「へーそうなんですか。」
と聞いていたが、
ん?
「初めて接骨院に来たのは何でですか?」
と聞くと、
「手首が痛くて来たんだよ。」と。
「え!まさか、その時から手首が痛いのですか?」
と聞くと、なんとそうらしい。
病院でもいろいろ検査し、軟骨を損傷していると診断されたそうだ。
病院では治療がないと言われたらしい。
「じゃあ、30年間ずっと手首に包帯してるんですか?」
と聞いたら、そうだと言う。
確かに手首を治療する時に包帯を取ると、手首だけ日焼けしていない。真っ白である。
Mちゃんの手首の病名は、手首の外側、小指側の軟骨を痛める
「三角線維軟骨損傷」(TFCC) であった。
これは、非常に治りが悪いので有名である。
外傷や老化でも起こる時がある。
もともと血流が良くなく、回復しにくい箇所である。
当時の私は、痛い箇所に電気(低周波)をしたり、マッサージしたり、鍼することしかできなかった。
今だったら手首に関連する関節の調整するだろう。
手首が治らない人に共通するのは、肩甲骨や首の前の筋肉が硬くなっている。
そして、肩が内に巻いたようになっている。
今思うと、Mちゃんも肩が内に巻いたようになっていた。
ただ一つ気になるのは、旦那さんが亡くなった後に接骨院に来て、それからずっと接骨院に来ていた事だ。
スタッフから「Mちゃん、Mちゃん」と可愛がられ、毎日接骨院に来て、よくスタッフと昼食を食べに行っていた。
そんなMちゃんの手首は、今思えば、治らないのではなく、治りたくない手首だったのかもしれない。
手首がなおってしまったら接骨院にくる必要がなくなってしまうから。
そんなMちゃんは、私の思い出に残る患者さんの1人である。
最近のお婆ちゃんは皆、若くオシャレでMちゃんのようなお婆ちゃんらしいお婆ちゃんは少なくなった。
鍼灸接骨院で働いている頃、祖母に
「親戚のお婆さんが、膝が痛くて歩けないから鍼灸をして欲しい」
と言われ、治療に行くことになった。親戚といっても、今まで全く会ったことがないお婆さんであり、家はそれほど遠くなく、車で15分ほどの距離であった。会ったこともない人に鍼灸をするのは初めてで、少し緊張しながら行ったのを覚えている。
お婆さん家は、ある駅のすぐ近くにあり、そこでお婆さんは自転車置き場をしていた。そこは猫とお婆さん、一匹と一人だけしかいなかった。
そしてお婆さんは、膝が悪いため駐輪代を受け取りに行くのに時間がかかり、自転車を停めてるお客の中でお金を払わないで帰ってしまう人が多かった。
私が様子を見ていると、「すいませーん!」とお客さんに言われても、膝が悪い為、お婆さんはなかなか出ていけない。お客さんは、少しは待つが、出てこないとそのまま帰ってしまうのだ。
お婆さんは、「停めてるやつらの半分しか金を払わねー。」と怒っていたが、特にお金に困っているようでもなく、なんとなくその光景がユーモラスにも見えた。
その家で飼われている猫は、外に出たら危ないからと首輪をされて、5m位のひもで柱に繋がれていた。猫は、一日中、同じ半径の円の中をぐるぐるしていて、その為、猫の周りだけ絨毯がはげていた。なんだか少し猫が可哀想な気もしたが、餌が食べ放題らしく、よく太っていた。
そんなノホホンとした感じの所なので、よく近所の猫好きな主婦やお年寄りがよく集まって、猫話に花を咲かせていた。
それから、お婆ちゃんの家に週に一回ほど鍼灸治療をやりに行くようになり、3回目くらいに行った時に、猫好きの近所の奥さんがいて、鍼灸治療を見ていて、
「友達が足が痛くて、どこにいっても治らないみたいで、今度、一回みてもらえないかなー。」 と言い、
軽い気持ちで「いいですよ。」と言ったら、次の週に本当に友達が来ていた。
膝から足首あたりが痛いらしく、「足を地面に着くのも痛い」と言っていた。特に関節などに異常はなく、神経痛の一種かなと思い、とりあえず師の鍼灸の真似をして自分なりに一生懸命治療した。
次の週に行くと、先週治療した人も来ていて、「あれから嘘のように痛くなく、びっくりした。」と言い、さらにその人の友人を2人連れてきていた。
また次の週にいくと、また1人増えていて、一気に5人になった。
師が一日大勢、鍼治療するのを普段見ていたから、「5人くらいなんでもないや」と思っていたら、意外に時間がかかり、疲れた。
つづく
接骨院で働いて3年ほど経った頃、ある分院の分院長が辞めることになり私がそこの分院長として配属になった。
それまでいた分院は患者さんが1日60〜80人ほどでスタッフが5人ほどたったが、配属になった分院は1日30人ほどの患者さんをスタッフ2人でやっていた。
配属されて行ってみると、今までの大人数を多数のスタッフで施術するのと違い、患者さんとの距離が近くアットホームな接骨院であった。
少し働き出すと、患者さん1人1人にかけられる時間が長く、ゆっくり施術ができて「こういう院もいいな〜。」と思った。
思えば、最初に弟子入りしたG鍼灸院は1日200人もの患者さんが来て、息もつかないほどの忙しさであった。患者さんとゆっくり話してる暇なんて無かった。
また、前の接骨院もかなり忙しかったし、大人数がいるために個人的な話はできない雰囲気だった。
それに比べ新しい分院は時間的に余裕があり、ゆっくり施術できた。
しかし、のんびりできていいなーと思っていたら、だんだん患者さんが増えてしまい2人では対応できなくなり、その後3人体制となった。その頃は1日50人を超えていた。
それから分院長は1年間やらせて頂いたが、開業前に分院長を経験して大変勉強になった。
この後、自分で開業するのだが分院長を経験させて頂いたおかげで開業してからも全く困らなかった。
分院長として治療施術だけでなく事務仕事も勉強できたのが大きいと思う。
開業する前に分院長を経験するのは、開業後に成功するために必要かもしれない。
自分で1つの整骨院を運営する練習になる。
二子玉川にある整体協会には学生の時を含め4回程行った。
現在の整体協会は操法(施術)は行っていない。
私は主に活元体操の会に行っていた。
活元体操とは、床に座り音楽を聴きながら自分の身体を感じて動かしたい方向に体を動かす体操である。
なのでラジオ体操のように決まった動きはしない。
人それぞれ違う動きなのだ。
初めて見ると皆んながクネクネ変な動きをしていてチョット不気味に見える。
しかし、やってみると心地よい。
頭を空っぽにして何も考えないで自分の体を感じ、動かした方向に動かす。
それが自然と体を整える動きになるのだ。
終わった後は心も身体も解放された感じがした。
活元体操は身体というより、むしろ精神を解放する効果が高いと思う。自律神経を整えリラックスできる。
筋肉を鍛えたり関節の可動域を広げる体操とは違う。
そんな活元体操は二子玉川の整体協会本部だけではなく、あちこちでやっていると思う。ご興味ある人は調べてください。
個人的には好きな体操ですが、初めは抵抗あるかもしれません。
私は普段は瞑想をする前に活元体操を少しやったりする。
瞑想をする前に活元体操をやると体の緊張がほぐれリラックスできより深い瞑想に入れる。
野口整体については今でも影響を受けている文化人が多くいるが、野口晴哉先生がご存命の時は治療家、教育者、文学者、音楽家など幅広い分野で野口整体のは信奉者がいたようだ。
私自身は後に野口整体の技術を伝える「井本整体」に縁あって通うことになる。「井本整体」の話はまた後で書きます。整体狂時代が後に始まります。
つづく。